若山城 所在地 山口県新南陽市
JR福川駅北西1.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/11/10
現地の案内板にある縄張図 文明2年(1470)に大内家中で対立していた津和野三本松城の吉見氏に備えて陶弘護が築城したといわれるが、陶氏の2代弘政の頃には築城されていたもいわれ、もしそうであれば100年ほど築城時期は遡る。元々簡単な詰城であったものを、弘護が不穏な情勢の中で本格的な城へと改修したのが実情かもしれない。
 陶氏は百済の聖明王の子孫という家系伝説を持つ大内氏の庶族で、大内盛房の子盛長が周防国佐波郡右田に住して右田を称し、その裔である盛俊の子、もしくは盛俊の子弘俊のさらに次男が鎌倉時代末期から南北朝時代頃に吉敷郡の陶に住んで陶を名乗った。この人物が陶家の祖となる弘賢である。そして、南北朝時代にはこの若山城のある富田周辺の地頭として大内氏の有力家臣になっていたようで、その後の大内氏の勢力拡大と共に発展し、弘政の子弘長は長門守護代に、その2代後の盛政は周防守護代に任ぜられ、以降は周防守護代職を世襲した。
 盛政の孫弘護は、応仁元年(1467)から足掛け11年に渡る応仁の乱の頃の当主だが、上洛した大内政弘の留守を任され、大内教幸が周防で叛乱した際にはその誘いを断り、見事叛乱軍を撃退している。この教幸の叛乱が起こったのが築城年とされる文明2年(1470)で、叛乱軍に吉見信頼がおり、もともと陶家と吉見家の間で領地を巡る争いがあったことから、真っ先に標的にされる恐れがあったのだろう。だが、積年の領地争いやこの叛乱の際の対立から、結局弘護は後に政弘が催した宴席で信頼に斬られて死んでしまい、しばらく勢力を弱めることとなった。
 弘護の死後、当初はその子である武護や興明が幼年であった為、弘護の弟右田弘詮が後見したが、やがて両人は内訌などで死去してしまい、興房が弘護の三男ながら家督を引き継いだ。興房は、大内義興の側近として数々の軍功を挙げた名将で、義興死去の際には後事を託され、義興の子義隆を補佐し、義興晩年から義隆前期にかけての大内家の全盛期を支えた。この興房の死後、長子興昌が討死していた為、次男であった隆房(晴賢)がいよいよ登場する。
 隆房は、義隆の側近として重用され、父の功績を追うように自身の軍事的才能でもって重臣筆頭の地位を占めた。しかし、義隆が天文11年(1542)の月山富田城攻めの失敗以来、政務を嫌って芸事に耽るようになり、更に文治派の相良武任を重用するようになって隆房ら武断派重臣団との間に亀裂が生じるようになる。そして、天文19年(1550)になると隆房は若山城に引きこもって城の修築を始め、翌年にはついに謀叛の旗を挙げた。この叛乱は他の重臣の支持もあって僅か数日で義隆を自刃に追い込み、嫡子義尊をも謀殺して終結するのだが、最初、隆房は7歳であった義尊を擁立する算段であったともいわれる。だが、結果的に義尊が殺されていることや、事前に大友氏に対して、義隆の姉の子で大友宗麟の弟である晴英を大内家の養子に迎えるよう打診していたという説があるなど、論議は帰結していない。
 叛乱後、隆房は大友晴英を大内家の養嗣子に迎え、後に義長と名乗らせた。ちなみに、隆房が叛乱後に改名した晴賢の晴は晴英からの偏諱である。この後、晴賢は義長を担いで威に服さない旧家臣を討伐する為に東奔西走するが、天文24年(1555)に毛利元就の深謀にかかり、厳島の合戦で敗れてあえなく命を落としてしまう。この戦いで晴賢は、偏狭な厳島に誘い込むのは元就の策謀と指摘する配下武将の意見を容れず、厳島上陸を強行して見事策に嵌ったといわれ、武勇に優れながら短慮な面を持っていたという晴賢の性格がよく出ている逸話である。
 晴賢の敗死後、嫡子長房が若山城を守ったが、晴賢が自害に追い込んだ杉重矩の子重輔が恨みを晴らすべく若山城を攻め、長房は討ち取られた。ただ、長房の没年に関しては、厳島の合戦と同じ年である弘治元年(1555)から同3年(1557)まで複数の説がある。また、毛利勢が迫った弘治3年(1557)の沼城落城後に若山城は開城するのだが、その際に逃れて落ち延びたという異説もあるようだ。
 城は、富田にあったので富田若山城とも呼ばれ、眼下に山陽道と瀬戸内海を収める標高217mの若山頂上に本丸を置いて南北を断崖で守り、東西に延びる尾根筋の東に二ノ丸と三ノ丸を、西に西ノ丸と蔵屋敷を置いて防備を固めていた。その規模は全長約400mもあり、当時の陶氏の勢力が窺える。また、これらの郭の周りには無数の竪堀と堀切が配置され、落城後すぐ廃された為か、今でもその遺構がはっきりと確認でき、史料としての価値も高い。
 現在、城跡は公園として再生されており、訪れた日も数家族がピクニックに来ていたが、山頂から東の二ノ丸と三ノ丸は駐車場と広場になっており、この部分はいかにもピクニック向けの公園といった感じである。本丸へは、駐車場付近から本丸と二ノ丸の間を結ぶ往時からの通路が出ており、それほど整備されている訳ではないが歩きやすく、本丸付近には段になった小郭や竪堀が見られた。このほかには、本丸から堀切を隔てた西ノ丸には石垣が僅かながら残っている。本丸を散策中にふと南側を見ると、瀬戸内の景色が広がって抜群の眺望だったが、これは城が要害の地にあった事の証明でもあるのだろう。しばし時を忘れてしまうほど清々しい景色だった。