霜降城 所在地 山口県宇部市
区分 山城
最終訪問日 2001/11/10
 蘇我氏に敗れた物部守屋の子孫といわれる厚東氏が居城とした。
 厚東氏の歴史は古く、平安時代末期には厚狭郡一帯に勢力を扶養しており、一説には物部氏の末裔ではなく在地豪族から成長した家であるともいう。この平安末期頃の当主であった武光が、霜降山に築いたのがこの城で、平清盛が後白河法皇を幽閉した治承3年(1179)頃のことと伝わる。
 この武光は、厚東郡司を称して名を響かせ、源平の争乱では最初は平氏側に立ち、この城に籠ったという。しかし、源氏が優勢になると源氏方に転じ、元暦2年(1185)の壇ノ浦の合戦では源氏方として武功を挙げている。戦後、その武功が認められて長門国での勢力拡大に成功し、以降は鎌倉時代を通じて長門最大級の勢力を培った。
 鎌倉時代末期の14代武実は、元弘元年(1331)から始まる元弘の乱に際して、当初は鎌倉幕府側に属していたが、同3年(1333)には後醍醐天皇方に転じて長門探題を攻め、その功で長門守護職に任ぜられると共に豊前にも足掛かりを築いた。そして、この後の尊氏の没落の際には一貫して尊氏を援け、共に上洛して戦い、北朝方でも長門守護となっている。武実からは武村、武直と続き、観応の擾乱でも尊氏に一貫して味方したが、武直の子義武の時に内訌が起こり、これを好機と捉えた南朝方の大内弘世が文和4年(1355)頃から幾度にも渡って攻め寄せ、ついに延文3年(1358)には霜降城を落とされ、九州豊前へ落ち延びた。その後、弘世が北朝方に転じたことから、義武は南朝方に属して菊池氏と結び、弘世を相手に長門の奪還を目指して戦い、正平20年(1365)の戦いで弘世に勝利して長門返還の約束を取り付けたが、その約束は守られたかどうか不明である。そうこうしているうちに今川了俊貞世による九州への侵攻が開始されて約束は反故にされ、結局、義武の帰還は果たせなかった。また、城も大内氏には用いられず、そのまま廃城になったようである。
 城は霜降山の頂上を本城とし、付近の峰に前城、中ノ城、後城を配置した4郭で構成され、規模としてはなかなか大きいらしく、現在も遺構がよく残っているという。だが、訪れた日は登り口と反対の方向に行ってしまった事もあって、時間の関係で登れなかった。