沼城 所在地 山口県徳山市
徳山北高東すぐ
区分 平山城・沼城
最終訪問日 2001/11/10
城址碑と百地蔵 須々万にあるので須々万沼城とも呼ばれる。現在は開拓されて一面の田園風景となっており、その面影はないが、当時は三方を沼に囲まれた要害で、標高10数mの高台に城があった。
 天文24年(1555)の厳島の合戦で勝利した毛利元就は、そのまま余勢を駆って周防攻略に取り掛かったが、陶晴賢の嫡子長房は毛利氏の攻撃に備え、勇猛な将として名の聞こえた家臣の熊毛山城主山崎伊豆守興盛を事前にこの城へ据え、迎え討つ態勢を整えていた。
 この城自体はいつ頃築城されたかよく判らないが、一般には室町時代の築城とされ、毛利軍に対する籠城準備の様子から見て、それほど離れていない若山城の支城として沼城は機能していたようである。また、周辺郷村の一揆勢も籠城に参加したというから、須々万一帯には陶氏を支持する地侍が多かったのだろう。
 やがて、厳島の合戦の翌弘治2年(1556)から毛利軍の侵攻が始まる。しかし、弘治2年(1556)の4月と9月に須々万へ侵入した元就の嫡子隆元や家臣熊谷信直は、前述の陶軍や郷村の惣組織に加えて大内義長の援軍や先に平定された山代地方の残兵らが参加した沼城籠城軍に手こずり、頑強な抵抗によって撃退されてしまう。この為、翌年2月に元就自ら総大将となって1万余の軍勢を率い、周防攻略の拠点としていた岩国から侵攻した。元就は沼で囲まれた城への対策として編竹を用意し、攻城の際に城を囲む沼に編竹を投げ入れて押し渡り、一気に城を攻撃したという。また、この時、元就は初めて鉄砲を実戦投入したとされている。この毛利軍の一気呵成の攻撃によって大混乱に陥った城内では、援軍として派遣されていた江良賢宣が降伏するなど退勢は明らかで、興盛が勇将の名に恥じぬ姿を見せて奮戦するも敵わずに自刃し、沼城は落城した。この沼城の落城後、すでに長房を失っていた陶氏の本拠若山城も開城し、周防の大部分は毛利氏の手に落ちることとなる。
 沼城の廃城時期は不明だが、現在の城跡には石碑が建っているだけで、それらしい遺構は見当たらず、本丸があったと思われる丘の頂上部には老人介護施設が建っている。沼城の石碑がある道沿いには百地蔵があったが、沼城小学校の名と共に、それだけが歴史の名残を留めているような趣があり、非常に印象的だった。