櫛崎城 所在地 山口県下関市
JR長府駅南2.5km関見台公園周辺
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/11/10
宅地に埋もれる石垣と城っぽい民家 現地城址碑には櫛崎城とあるが、地図には串崎城とあった。
 天慶3年(940)に藤原純友配下の稲村景家が築城したとの伝承があり、源平合戦の際には、義経が紀伊国熊野、豊後国臼杵、長門国櫛崎の船を集めたとあることから、中世の城という姿形ではなかったと思われるものの、馬関海峡の東端に位置する海上交通の要衝として、水軍の拠点があったものと考えられる。
 実際に現在の場所に城が築かれたのは戦国時代中期から後期にかけてで、大内氏配下の内藤隆春が築城したとされる。ただ、隆春の父興盛が長門守護代として居城したという説もあり、ずっと以前からあった城郭の機能を隆春の時に改修強化しただけという可能性もある。
 隆春は、天文20年(1551)の陶隆房(晴賢)の謀叛によって大内義隆が没した後、陶氏に味方した甥隆世と袂を分かち、妹婿が毛利元就の嫡子隆元ということあって毛利氏に接近していく。そして、同24年(1555)の厳島の合戦では毛利軍に味方し、やがて大内氏と運命を共にした隆世に代わって内藤氏の家督を継いだ。このように、内藤家は一時的に分裂していたのだが、櫛崎城がどちら側の城であったかなど、詳細なことはよく判らない。時代が下った毛利治世下では、内藤家臣であった勝間田就盛や盛道、盛長といった勝間田一族が在城していたらしく、海上交通の要地であった馬関海峡の押さえとして機能していたようだ。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、毛利家は大幅な減封を受け、更に本拠であった安芸からも退去させられて、周防と長門の2ヶ国に押し込められた。このような困難な情勢の中、元就の四男元清の子で、従兄弟にあたる長州藩初代藩主輝元の養子となっていた秀元が、長府一帯を拝領して支藩の長府藩が成立した。この時、藩主秀元が櫛崎城をその居城と定めて再築し、新たに雄山城と名付けている。しかし、藩の首城として機能した期間は短く、早くも元和元年(1615)の一国一城令で廃城となってしまい、これ以降は城のすぐ近くに構えた陣屋に政庁が移された。
 城は、海のすぐ近くにある標高の低い丘に築かれており、背後に断崖と海を擁して海城の体を成している為、防御力はそこそこあったはずである。また、当時は舟入があって毛利水軍の拠点として機能していたという。
 現在、城跡の中やその近くまで民家が建っていて遺構が確認しにくく、当時の縄張がどうであったか判りづらいが、豊浦高校側には見事な高石垣が風雪に耐えながら民家の土台として頑張っているほか、海際の丘にも所々石垣が残っている。また、海側は、最初に訪れた時は大きな鯨の展望台のようなものだけが目立ったが、次に訪れた時には関見台公園として城らしい雰囲気が少し漂うように整備されており、本丸部分だったと思われる場所には天守台を模した石垣が復元されていた。これがどの程度忠実に再現されたものかは案内板が無かったので分からないが、城跡としての雰囲気はかなり良くなったと思われる。
 正直なところ、この城で一番目を引いたのは、高石垣の上にまるで多聞櫓のように民家が建っていることだった。城地が民間に払い下げられた例は多いが、ここまでダイレクトに使われているのは珍しく、城好きには垂涎の的ではないだろうか。ちなみに、城址碑のある場所はかつて大手であった松崎口二重櫓の跡である。