高嶺城 所在地 山口県山口市
山口県庁西500m山口大神宮後背
区分 山城
最終訪問日 2001/11/10
僅かに残る本丸下の石垣 山口を本拠とした大内氏は、他の戦国大名の拠点に見られるような城郭は設けなかった。これは、山口へ本拠を移した時点で既に周防長門二州の守護であり、その勢力の大きさから本拠地に攻め込まれることをあまり想定する必要が無く、居館に住居するという形態のまま戦国時代を迎えたことによる。そのような背景があった為、本拠山口の詰を担うこの城が築城されたのは滅亡直前の弘治2年(1556)と遅く、陶隆房(晴賢)に擁された最後の当主義長の手による。逆に言えば、詰城を築かなければならないほど情勢が切迫していたということだろう。
 大内氏の出自には、百済の聖明王の子琳聖太子を祖とする伝承があるが、真偽のほどは確かめようがない。王族の血筋かどうかは置くとして、渡来人なのは間違いないらしく、子孫が周防国吉敷郡大内に住して大内を称し、平安時代は周防在地の官人として、鎌倉時代には平家追討の功で御家人として勢力を養った。南北朝時代には弘幸と長弘が家督争いでそれぞれ南朝と北朝に分かれたが、弘幸の子弘世が南朝方の周防守護職として一族を統一し、更に北朝方長門守護の厚東氏を九州へ追って周防長門二州の守護となり、守護大名大内氏の基盤を確立した。また、本拠が山口に移されたのもこの頃である。
 これ以降は、弘世の子義弘が上記2ヶ国に加え石見や豊前など計6ヶ国の守護となって勢力を拡げるが、将軍義満の有力大名勢力削減の策に嵌って応永6年(1399)に応永の乱を起こし、堺で討死した。ここで一旦弱体化した大内氏だったが、幕府が後継と認めた義弘の弟弘茂を、在国で留守を守っていた兄盛見が討って強引に家督を継承し、後には豊前と筑前の守護職も認められて勢力を回復している。しかし、盛見が九州で少弐・大友連合軍と戦って討死すると、今度は義弘の子である持世と持盛が家督を争い、これに勝った持世も嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の巻き添えで没するなど、以降も決して安泰ではなかった。その後、持世の跡は盛見の子教弘が継ぎ、教弘の孫義興の時には、前将軍義稙を奉戴して約10年間も在京するなど最盛期を迎え、本拠であったこの山口も西の京と呼ばれて貴族が落ち延びてくるなど、栄華を極めたという。
 義興の子義隆の時代は、その治世前半は各地に兵を繰り出すなど最盛期の余韻が残っていたが、天文11年(1542)から翌年にかけての月山富田城攻めで敗退して以降、文化活動に傾倒するようになって側近も文治派が占めた。このおかげで、山口の都市としての繁栄は最高潮を迎えたが、陶隆房など家中の武断派は不満を抱き、やがて天文20年(1551)に謀叛を起こす。この謀叛は、義隆を引退させてその嫡子義尊を擁立する為だったともいわれるが、結果的に義尊も殺されていることや、事前に大友家に対し義隆の甥大友晴英を養嗣子に迎えることを打診していたという説があるなど、なんとも言えない。
 晴英は家督継承後、義長と名を変えたが、軍権は晴賢が握っており、傀儡であった。一方の晴賢も、もともと大内家の同僚と折り合いが悪かったことや強引な政策が裏目に出て家中をまとめきれず、やがて吉見正頼などが叛乱を起こすようになる。このような叛乱のひとつが毛利元就の挙兵で、周到な謀略を散りばめた元就の策に晴賢は嵌り、天文24年(1555)の厳島の合戦で完膚なきまでに破られて敗死した。
 この後、晴賢を破った元就は征西の軍を進めたが、中心人物のいなくなった大内軍は内訌や降伏などで総崩れとなり、弘治3年(1557)の3月には毛利軍がいよいよ山口へも迫ってきた。義長は、一旦はこの城に籠ったが、防戦の困難を悟り、実家の大友氏を頼ろうとして城を落ち延びたものの、馬関海峡が封鎖されて九州に渡れず、長府の北にある且山城に再び籠らざるを得なくなる。そして、最後には助命を条件に開城したが、今の功山寺にあたる長府の長福寺を囲まれ、自刃した。
 その後、毛利氏はかつて大内領だった筑前へも出兵し、大友氏と壮絶な攻防戦を繰り広げるが、その最中に大友軍の奇襲作戦として旧大内家臣を糾合した大内輝弘が永禄12年(1569)に山口を急襲し、この城を囲んだ。当時の城番は山口の奉行市川経好だったが、経好は対大友の最前線にいて城におらず、経好の夫人が少ない留守部隊を率いて果敢にも籠城し、見事大内軍を撃退している。一方、城を落とせず山口の市街を占拠するに留まった大内軍は、報せを聞いて軍を返してきた毛利家の主力と戦うことの不利を悟り、海路から落ち延びようとしたが、結局は防府で自害に追い込まれることとなった。
 城は、その後も中国地方随一の市街であった山口を押さえる城として機能し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に毛利氏が防長二州へ減封された際には本城候補として挙げられたが、主街道である山陽筋に首府を置くことは幕府が許可しなかった為、長州藩の本拠は萩に決している。そして、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、島原の乱後の寛永15年(1638)に幕府から出た古城破却の命の際にも破壊された。
 城の構造は、高峯、鴻峯とも呼ばれるほぼ独立した標高338mの山にあり、周囲は断崖に囲まれ、稜線に細長く階段状に郭を配した典型的な中世山城である。頂上部や尾根筋にある、井戸や郭跡の遺構は確認しやすく、主郭にも石垣が所々残っているが、起工からの期間を考えると、これらの石垣は後に毛利氏が改修した際のものだろう。
 現在は史跡公園として整備され、山口市街を一望できる絶好のビュースポットとなっており、下草などもきれいに刈られていて非常に散策がしやすい。訪れた時は山口大神宮から登った為、結構体力を使ったが、すぐ近くまで車でも来れるようで、何組かの人達が車で登ってきていた。でも、個人的には、下から自分の足で登って山頂からの眺望を味わえば、疲れも吹っ飛んで満足感に変わるのでお勧めだ。