勝山御殿 所在地 山口県下関市
JR長府駅西2.5km
区分 平山城・陣屋
最終訪問日 2001/11/10
現地案内図 幕末の文久3年(1863)5月、尊皇攘夷の藩論たぎる長州藩が外国艦船を砲撃する事件が発生した。馬関戦争、もしくは下関戦争と呼ばれる長州藩単独の攘夷行動である。しかし、列強と比べて艦船や装備の劣る長州藩は、翌月には米軍艦に艦船を撃沈され、仏艦隊には上陸を許して砲台を破壊された。
 このような情勢の中、長州藩の支藩である長府藩の当時の藩主毛利元周は、この攘夷行動に長府藩兵を参加させていることもあり、海寄りの櫛崎にあった陣屋では危険と判断した。そして、上記の仏軍の上陸を許した直後、急遽山側のこの地に城を起工したのが勝山御殿である。
 城は、時勢の紛糾も手伝い、翌年には工事期間7ヶ月という早さで完成した。これは、スピード築城の記録になっているという。しかし、この御殿が完成した年は長州藩にとっては最悪の年で、7月に蛤御門の変で敗れ、8月には英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊による報復攻撃を受けて降伏し、更に11月には第一次長州征伐を受けるという、苦難が連続した時期であった。支藩とはいえ行動を共にしていた長府藩も、同じく苦難の年であっただろう。
 その後、この勝山御殿は長府藩が豊浦藩と改称した後も政庁が置かれ続け、明治4年の廃藩置県後に建物が取り壊された。
 御殿は、勝山山頂にある大内氏所縁の且山城の麓に位置し、突貫工事の割には本丸から三ノ丸まで備えた十分強固な構造である。本丸には、60余りもの部屋があったという御殿が建っていたようで、幕府や毛利宗家に対する遠慮から御殿と称していたが、構造や規模から考えれば間違いなく城であった。建物は取り壊されているが、現在も壮大な石垣や石畳は残っており、当時を偲ばせるには充分である。