岩国城 所在地 山口県岩国市
山陽道岩国I.C.東1km錦帯橋後背
区分 山城
最終訪問日 2001/11/10
錦帯橋と山上の岩国城 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、中国8ヶ国の太守であった毛利氏は防長二州に減封され、月山富田城や米子城など12万石を治めていた毛利一族の吉川家も、岩国へ移って3万石を再給されることになった。吉川元春の三男で当主だった広家は、領国へ入ると早速首府となる城の築城地として岩国の横山を選定し、早速慶長6年(1601)から麓の土居と呼ばれる政庁部分の普請を始めた。そして、同13年(1608)に詰の山城を含めて竣工したのがこの岩国城である。しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった為、非常に短命な城であった。
 この吉川家は正式に立藩していなかったが、これは、関ヶ原の合戦での広家による種々の画策が成功しなかった為、毛利本家に冷視されていたのと無縁ではなかったともいわれている。関ヶ原の合戦の経緯から吉川家は幕府に評価され、江戸に藩邸を持っていたが、毛利本家はあくまで独立を認めず、一国一城令の際も、岩国城が周防唯一の城ということから外れていたものを、長府藩の櫛崎城が廃城となることからバランスを取って岩国城も廃城にしたという。一時は本家の後継候補であった秀元が藩祖という背景を持つ長府藩とは単純に比べられないが、それでも支藩として正式に立藩していた長府藩とは扱いに差があるように思われるのは確かだ。
 そもそも、毛利本家が関ヶ原の合戦後に領した防長二州は、もともとは関ヶ原の合戦の功で吉川広家に与えられるはずだったもので、名目上西軍の総大将だった毛利本家は取り潰しの予定となっていた。恩賞裁定の過程で、広家が自分の領地はいらないから本家に与えてくれと家康に懇願した為に毛利家は長州藩として生き残れたのだが、毛利本家としては、合戦の結果、減封されたという厳然たる事実のみが残ったように感じられ、広家の外交上の失策と見えたのだろう。関ヶ原前哨戦の時から毛利家中は全く一枚岩ではなく、石田三成と親しかった外交僧安国寺恵瓊が当主輝元を大坂城に担ぎ出して西軍の総大将に据えるなど、後世の目から見れば滅んでもおかしくなかった毛利本家から叩かれる理由など全くないように思われるのだが、歴史の中では最善を尽くしても評価されないということがままあり、広元も運悪くその類型にはまってしまった人物と言える。
 城は、錦川が大きくうねったところにある標高300mほどの横山にあり、三方を川に囲まれ、残る南は山々が連なるという要害の地にあった。単純に山上の詰の部分だけを見れば山城だが、麓の土居も含めて考えると広義の平山城とも考えられ、毛利本家の萩城と同じような構成である。城としての存在期間は短いが、麓の土居は江戸時代を通じて吉川家の政庁であったことから、堀などが今も残っており、当時は櫓が上げられていたという。ちなみに、現在建っている錦雲閣は、明治18年に当時の櫓を模して造られたものらしい。一方、山上にも石垣や堀などがきちんと残っており、発掘調査が実施されて、石垣などの一部は復元されたもののようだ。
 観光カタログやパンフレットに載っている現在の模擬天守は、景観を考慮して当時の天守があった位置からずらして昭和37年に建てられたものである。麓の錦帯橋と山上の模擬天守の組み合わせは写真が示す通り特別な趣があり、また、山頂までロープウェイが通じていることもあって観光客が多く訪れているという事実を考えると、観光の目玉として天守閣は成功したと言えるが、城好きの立場からすると、元の位置からずらして建てることに微妙な思いを持ってしまうのもまた事実だろう。