守山城 所在地 富山県高岡市
能越道高岡北i.c.北東3.2km
区分 山城
最終訪問日 2018/5/29
守山城説明板 越中三大山城のうちのひとつ。二上山系の城山にあり、二上城ともいう。
 守山城の築城時期は不明だが、南北朝時代の建徳2年(1371)に、南朝方の桃井直常が斯波義将の本城守山を攻め落としたとあることから、南北朝時代には既に城として整備されていたことが判る。
 斯波氏と言えば、越前を領国とするイメージがあるが、家祖高経が守護に補された事が最初であり、その関わりは古い。守護職は、後に四男義将に引き継がれ、貞治5年(1366)の貞治の変の後に一時桃井直信へと代えられたものの、翌年の高経の死没後に義将が幕府と和解した際に最初に守護に復帰した国になるなど、斯波氏にとって重要な拠点国でもあった。一方、前述の直信やその兄直常も、足利一族として兄弟共に越中守護に任じられた事があり、越中に勢力を持つ一党である。従って、この両者の間で守護職が移動したとなれば、対立は必至であった。
 上記の守護職の移動後、当然のように直常は自らの勢力圏を守るべく再び南朝に帰順して北朝方の斯波氏や吉見氏と激しく争い、その戦いのひとつとして前述の守山城落城があったようだ。しかし、本拠である守山城が落城したと史料にはあるものの、全体の戦いとしては直常は劣勢で、城が落ちる前年に行われた婦負郡長沢での戦いに敗れ、城が落ちた年には五位荘で敗れて歴史から姿を消している。つまり、落城は一時的にしか過ぎなかったようだ。
 この後、義将は康暦元年(1379)の康暦の政変によって管領に返り咲き、越前守護だった畠山基国と守護職を交換する形で越前守護に復帰した為、越中は畠山氏の守護国となった。ただ、この頃の守護は在京する場合が多く、また、後に基国は各国の守護をも兼ねた為、越中にはほとんど足を踏み入れなかったと思われ、代わって守護代神保氏が放生津を拠点として東越中を治めたと見られる。守山城は、放生津から見て平野部の西端にあたり、詰城として用いられていたのではないだろうか。
 神保氏は、鎌倉時代から畠山氏に仕えていたとされる譜代家臣で、その本貫は上野国という。氏族としては、惟宗氏が有力ではあるが、平氏や橘氏などの説もあってはっきりせず、越中へ入国した年代も不明である。歴史上に登場するのは嘉吉3年(1443)の国宗の代で、後に畠山持国の子義就と甥弥三郎が家督争いをした際に、弥三郎派としてその名が見えるが、享徳3年(1454)に京都屋敷を襲撃され、その翌年に放生津城も落城しており、義就派に敗れて一旦は没落したようだ。
 その後、子と見られる長誠が、弥三郎の弟政長の腹心として登場し、家を再興して応仁元年(1467)から始まる応仁の乱で活躍している。応仁の乱の終結後、主家の家督は政長が継いでいたが、明応2年(1493)の明応の政変によって政長が自害に追い込まれると、長誠は政長に支えられていた前将軍義材を越中に迎え、多くの幕府奉公衆や公家も越中に下ったという。この出来事は、当時の長誠の威勢を示すものだろう。
公園として整備されている本丸 長誠の跡を継いだ子慶宗は、相続早々の永正3年(1506)に加賀から侵攻した一向一揆に敗れ、いきなり滅亡の危機に立たされるが、8月には越後守護代長尾能景の助力によって持ち直した。しかし、9月18日の般若野の合戦では戦線離脱し、結果的に能景を見殺しにしてしまう。この後、慶宗は一向一揆との融和を進めて越中の支配を強化し、やがて同じく守護代の椎名慶胤と共に独立を志向するのだが、永正16年(1519)に越中守護畠山尚順の要請で能登守護畠山義総と仇討に燃える能景の子為景が越中に侵攻し、この年は守山城に籠城して撃退したものの、翌年の再侵攻の際に新庄の戦いで壊滅して自刃に追い込まれた。
 こうして神保氏は再び没落したのだが、慶宗の子と思われる長職が次第に勢力を回復させ、時期は不明ながら守山城に復帰したようだ。その後、長職は伝統的に椎名氏の領地であった新川郡へ天文12年(1543)に進出して富山城を築き、拠点とした。これにより、椎名氏との対立が激しくなり、その後ろ盾である為景の子景虎の越中侵攻を何度も受け、その度に降伏している。ただ、この頃の拠点としては富山城や増山城が中心で、守山城には一門の神保氏張が城主となっていたようだ。
 この後、神保家中は親上杉派と反上杉派の分裂状態に陥り、長職の嫡子長住や氏張は反上杉派であったようで、長住は追放され、氏張も景虎から名を変えた上杉謙信によって永禄11年(1568)3月に攻囲されている。この時は城は落ちなかったが、方針を直接統治へと切り替えた謙信によって天正5年(1577)にも攻められ、氏張は降伏した。翌年に謙信が病没すると、家督争いもあって上杉氏の勢力が越中から退潮した為、氏張も織田氏への接近を図ってその越中侵攻に協力し、平定後は佐々成政の与力となっている。
 天正10年(1582)に信長が本能寺で横死した後、成政は賤ヶ岳の合戦に参加できないまま秀吉に降伏したが、同12年(1584)に小牧長久手の合戦が起こると織田・徳川連合軍に与し、秀吉の家臣となった利家と対立するようになった。成政は、利家の加賀への侵攻を企てたが、末森城の合戦に敗れて頓挫し、翌年には阿尾城の菊池武勝が前田方に寝返った為、成政の命で守山城から氏張が出陣して阿尾城を攻めている。しかし、出陣中に守山城で謀反が起こり、父氏重が討たれて城が奪われてしまった。氏張は、兵を返して守山城を攻めて奪い返し、再出陣したものの、結局、阿尾城は落とせず、撃退されてしまっている。
 この後、成政は秀吉の越中侵攻に備えて富山城に兵力を集中させ、本格的な戦いが始まる前に降伏した為、守山城はたいした戦闘もなく明け渡されたのだろう。城は利家の嫡子利長に与えられたが、利長は慶長2年(1597)に富山城に移った為、一門で加賀八家に数えられる前田長種が城代となっている。ただ、翌年に利長は利家より家督を受け継いで金沢城に入城し、長種が富山城代に転じている為、他の富山の諸城と同様にこの頃に廃城となった可能性が高い。
 城は、二上山西南の峰である城山に築かれ、最高部一帯から稜線に沿って南西方向に主な郭を重ね、北西方向の尾根にも郭を持つ城で、大まかにはyの字を逆さにしたような形をしている。万葉ラインを上った先の現在の駐車場から、公園として整備されている細長く大きな公園が主郭部で、その南西方向に4段ほど削平地が続いており、この辺りまでは明確に城跡と認識できるが、安田城跡資料館で貰った史料によると、そこから先にも万葉ラインに沿って比較的大きな削平地があるようだ。ここまでの範囲を考えると、越中の三大山城としての規模にも納得がいく。ただし、公園として整備されてしまっている為、最高部は公園としての趣が強く、その南西方向の郭と本丸の切岸が最も城らしさを残している部分だろうか。
主郭部から見た南西に続く郭群 現在の城跡は、前述のように万葉ラインの開通や公園化で、古城としての趣は物足りないが、平日にも関わらず東屋で休憩している人がいるなど、市民の身近な公園となっているようだ。標高がかなりある割に整備されているので、軽い日帰り登山の目標としては最適なのだろう。頂上部からの高岡市街の眺めは素晴らしく、眼下に小矢部川が流れており、この景色から、川筋の国府や、河口からすぐの放生津へのアクセスの良さが思い浮かび、城の立地に納得がいった。