森寺城 所在地 富山県氷見市
能越道氷見I.C.北5.9km
区分 平山城
最終訪問日 2018/5/29
森寺城案内図 能登畠山氏が越中の拠点として築いた城。当時は湯山城と呼んでおり、一次史料にはその名で登場する。
 越中と能登との街道は、阿尾川沿いに北上して荒山峠を越える荒山街道が主街道であったが、この街道筋を扼す機能を持った城であった。具体的な築城時期を史料から裏付けすることはできないが、16世紀前半の遺物が出土していることから、戦国時代初期から拠点として機能したのは間違いなく、時代背景を考えると、宗家である河内畠山氏の要請で能登守護畠山義総が越中に兵を出した、永正16年(1519)から翌年に掛けての越中守護代神保慶宗の討伐の際に築かれたのかもしれない。ただ、能登畠山氏は、義総の祖父義統の頃から越中への介入をしており、それより時代が遡る可能性もある。
 この慶宗の叛乱には、同じく守護代であった椎名慶胤も参加しており、畠山宗家は、討伐には勝利したものの、以後は越中に対する影響力を失って行く。これに対し、義総は能登畠山氏の全盛期を現出した武将であり、叛乱後も宗家に代わって越中に対する影響力を行使する為、恐らく森寺城は能登畠山氏の城として維持されたのだろう。その証拠に、能登畠山家中の実力者温井総貞の暗殺を契機として勃発した弘治の内乱では、叛乱を起こした温井氏側勢力が弘治3年(1557)に湯山城を落としたことが見え、能登畠山氏側の城であったことが判る。
 その後、永禄11年(1568)に、能登を追放された義総の孫義綱が、能登奪回の兵を挙げた際、荒山街道が侵入路となり、森寺城が攻略されたようだ。能登へは、加賀から羽咋方面経由で入るルートと、越中から氷見経由で入るルートが主で、加賀の勢力を味方に付けるか、越中の勢力を味方に付けるかで、その侵入路が選択され、氷見ルートが選択された場合は、森寺城が重要拠点として攻防の的になった。
 元亀3年(1572)頃になると、氷見一帯には長沢氏が勢力を伸ばしたようで、長沢光国が上日寺に石仏を寄進したことが見えるほか、すぐ南東の海老瀬城の城主には長沢善慶の名が伝わる。時期的には、氷見の八代荘を本貫とし、弘治の内乱以降に能登畠山氏の中枢に参画した八代俊盛が永禄12年(1569)に叛乱を起こして討死しており、経緯は不明だが、八代氏の後釜として長沢氏が一帯を支配したようだ。ただ、光国がこの時期に森寺城主であったかどうかは不明である。
二ノ丸の削平地と本丸石垣 天正4年(1576)になると、度重なる叛乱にしびれを切らした上杉謙信が、越中と能登の直接支配に舵を切って侵攻してくるのだが、その過程で森寺城は陥落したようで、光国が森寺城に在城したようだ。この後、光国は能登穴水城に転じ、森寺城には湯山続甚なる武将がいたようだが、詳細は不明である。続甚は、諱に続の字があることから、義総の子義続から偏諱を受けたと見られ、畠山家臣系の武将なのだろう。とすれば、謙信が七尾城を落としきれずに撤兵した後、畠山勢が勢力を盛り返した際に湯山城を奪った可能性が高く、湯山の姓も城を奪ってから名乗ったのではないだろうか。
 このような情勢に対し、謙信は翌年に能登再出陣を決め、鰺坂(有坂)長実に森寺城を攻略させた。この後、長実はそのまま能登に入って七尾城代となり、この湯山城には河田主膳が城代として置かれている。
 天正6年(1578)に謙信が没すると、後継者争いである御館の乱が勃発したこともあり、能登と越中に対する上杉家の影響力はかなり低下してしまう。これを衝いて織田軍が越中や能登に侵攻し、翌年に森寺城は織田家臣長連龍の攻撃によって落城した。こうして越中は、織田家臣佐々成政に与えられ、城には越中斎藤氏の斎藤信利が入城している。
 天正10年(1582)の本能寺の変後は、成政は柴田勝家に与すものの上杉氏への備えの為に動けず、翌年の賤ヶ岳の合戦後は前田利家と同様、秀吉に降伏した。しかし、小牧長久手の合戦が起きると、織田・徳川連合軍に加担して秀吉から離反し、秀吉側の利家と末森城で戦うなどしている。この過程で、利家の領国である能登との境の城である森寺城は重要な拠点となったはずだが、表向きには何もなかったようだ。阿尾城の菊池武勝に前田家から調略の手が伸びており、湯山城にも硬軟の接触があったと思われるが、事跡としては不明である。そして、成政が天正13年(1585)に秀吉に降伏すると、越中は利家の嫡子利長に与えられ、境の城という役目を失った城は廃城となった。
 城の構造は、明らかに越中方面を意識した縄張となっており、城郭の中心部に本丸、二ノ丸が置かれているが、その主郭部から能登方向よりも越中方向に削平地が多い。主郭部は、左右の頂点を欠いた巨大な三角形をした二ノ丸の、上部の頂点のみを空堀と石垣で方形に区画して本丸とし、続く同高の二ノ丸から南側に大手道が出ている。大手道は、屈曲させながら郭の間を通り、城のすぐ西側を通る道へと出るが、その道は荒山街道の枝道か軍用道路であったと思われ、一部は城の一角として取り込まれていた。主要な防御区画としては、主郭部と北側の稜線の削平地、そして主郭部からやや下がった南西側の一角、更に主郭部南の金戸山の一角と思われ、続く重臣の屋敷がそれに準じる機能があったようだ。その屋敷地としては、カンジャ屋敷、サイダ屋敷、野崎屋敷が大手側に、搦手口付近に寺坂屋敷があり、いずれも街道と近く、街道監視の役目があったと思われる。また、二ノ丸西側の街道筋には細長い百間馬場があり、その搦手側に牛ヶ窪があるが、この間は堀切や土塁、食違いなど非常に技巧的であり、主郭にとって手薄な搦手側に対する備えと見られ、能登と越中の間の緊張感が高まった時期に構築されたのではないだろうか。
重層的な二ノ丸搦手 城へは、荒山峠へ通じる県道18号線の森寺交差点を北東へ折れ、あとは案内通りに山裾を進めば城の寺坂屋敷に続く削平地の駐車場へと簡単に行けるが、途中は道が細く、車では注意が必要である。城を散策してみると、そこそこの標高から山城に分類されるのかもしれないが、山容は優しくなだらかで、削平地も広く、数字ほどの標高は感じない。実感としては平山城と言っても良いかと思われる。同じ富山県内の三大山城に次ぐ規模を持つ城だが、難攻不落の山城と趣が違い、散策ではまた違った楽しみがある城だ。