鬼ヶ城 所在地 鳥取県若桜町
若桜町役場南西400m
区分 山城
最終訪問日 2007/6/13
鬼ヶ城縄張図 若桜街道の押さえとして、標高466mの鶴尾山に築かれた山城で、地名を冠して若桜鬼ヶ城とも呼ばれる。因幡三名城のひとつ。
 正治2年(1200)に、駿河国矢部から入部した矢部暉種によって築かれたとも、応安2年(1369)に矢部若狭守が築いたともいう。いずれにしろ、若桜一帯を治めた国人矢部氏が築いた城で、戦国時代まで16代の間、居城とした。
 矢部氏は、鎌倉時代から早くもその名が資料に見え、南北朝時代には山名氏に従っていたようだが、室町時代には幕府の奉公衆の地位を得ている。これは、市場城を本拠にしていた因幡毛利氏と同様で、明徳2年(1391)の明徳の乱などによって山名氏が衰退したことが影響したようだ。つまり、守護大名潰しと幕府直属の奉公衆などを強化するという将軍義満の方針の一環で、山名氏に対しては明徳の乱を挑発して引き起こさせ、討伐によって没落した山名氏から配下の有力国人を引き抜いて奉公衆にするということが行われた可能性が高い。
 室町時代以降の矢部氏は、前述の毛利氏と行動を共にし、2度に渡る毛利次郎の乱でも、毛利方に山城守定利の名が見える。この2度目の乱で、定利は毛利貞元が市場城で自刃した後も山名政実を擁して鬼ヶ城で因幡守護山名豊時と戦い、延徳元年(1489)に自刃しているが、これ以降も矢部氏は勢力を保持して鬼ヶ城を本拠としたようだ。
 戦国時代に入っても、矢部氏は因幡毛利氏らと共に山名氏に対し半独立な立場を取って幾度となく山名氏の軍勢と戦い、尼子氏が因幡へ勢力を伸ばしてくると、山名氏との対抗上これと結んだらしい。そして、尼子氏の衰退後、永禄年間(1558-70)中頃に山名家臣である武田高信が毛利元就の支援で勢力を拡げると、因幡毛利氏と共にこれと戦い、同12年(1569)に山中鹿之助幸盛が尼子氏再興軍を挙兵した際には、幸盛に協力した。しかし、この尼子再興軍が瓦解すると、因幡毛利氏と共に安芸毛利氏に従ったようである。その後、幸盛による第2次再興軍が因幡を席巻すると、要衝鬼ヶ城も攻略対象となり、天正3年(1575)に矢部氏は謀略をもって捕えられ、滅んだ。
 しかし、鬼ヶ城を奪った尼子軍であったが、この城を本拠に一時は因幡のかなりの部分を押さえものの、同年秋には毛利軍の反攻で城を次々と抜かれ、翌年にはこの城を放棄して落ち延びざるを得なくなってしまう。そしてこの後、尼子主従は上月城攻防戦で悲劇的に散ることとなる。
 一方、毛利氏が奪回した鬼ヶ城だが、織田家の中国方面軍を率いる秀吉によって再び攻略対象とされた。同5年(1577)には先遣隊の荒木重賢らが、城番をしていた吉川元春の家臣青木氏を追い、秀吉の拠点姫路城と因幡とを結ぶルートの確保に成功している。だが、その後も攻防が続いたらしく、同8年(1580)の秀吉による因幡侵攻の際には秀吉方の八木豊信が陥落させて守将となり、その撤退後は毛利家臣牛尾元貞が城主となった。この元貞は、秀吉による鳥取城攻めの前に一時期だけ鳥取城主を務めた武将で、この鬼ヶ城から鳥取城へと転じて城主となっている。その後、翌年の鳥取城攻略の際に鬼ヶ城は戦略拠点となっているが、秀吉が因幡へ入国した時には若桜街道から難なく因幡入りしており、その頃にはすでに秀吉が城を掌握していたようだ。
本丸と天守台 鳥取城陥落後、重賢が正式に城主となり、やがて木下姓を与えられた。これは、秀吉からの信頼はもちろんだが、重賢が信長に謀叛した荒木村重の縁者とされることから、荒木姓が憚られたのも理由のひとつかもしれない。重賢はその後、秀吉による各地の征討や朝鮮の役にも従軍しつつ、城や城下を整備したというが、戦費の調達に非常に苦心していたらしいので、整備は計画通りには進まなかったのだろう。この後、重賢は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、当初は家康の上杉討伐軍に従っていたものの、三河吉田で抜けて西軍に加わった為、戦後、天王寺で切腹している。そして、重賢の後には山崎家盛が鬼ヶ城に入部したが、元和3年(1617)に備中成羽へ転封となって城は廃城となった。
 城は、山城の規模としては中程度だが、主郭部分は総石垣であったと思われ、今でも残存する石垣は多い。また、破城を受けた時のものか長年の風雪によるものか、城内にはかつて石垣に使われていたと思われる巨石も多く転がっている。城の縄張は、天守台を備えた本丸から北へ二ノ丸、三ノ丸と続き、南側の本丸直下にはホウヅキ段と呼ばれる郭を備え、この4つの郭で主郭を形成していた。三ノ丸東側の大手口や、二ノ丸と本丸を結ぶ廊下橋虎口の石垣はなかなか見応えがあり、独特な構造の行き止まり虎口というものもあって面白い。主郭から北へ行けば、中世の頃の主郭である古城と呼ばれる場所があり、西側の搦手の先には六角石崖と呼ばれる出丸のような場所もある。また、南側へ行けば削平地が幾段かあり、大きな土塁と堀切を経て馬場に到るが、この馬場は他の山城に見られるような細いものではなく非常に大きく幅もあるので、山城のものとしては珍しい。この馬場の一部には砂利が敷かれており、少し整備の手は入っているようだが、馬場の縁辺にはかつて利用する為に植えたと思われる矢竹が自生しているので、恐らく当時からこの大きさだったのだろう。馬場としては大きすぎる感じであり、もしかすると何か軍事的に他の要素があったのかもしれない。
 現在、城への道は若狭町民体育館裏や若狭小学校の南など、複数の登山道があるが、若狭小学校を折れて山の方向へ向かうと、舗装された道が馬場のすぐ下まで伸びており、楽に登ることができる。天守台からは、城下の若桜宿や八東川沿いの街道が見下ろせ、しばらくぼんやりと佇んでしまうほど眺めが良かった。ただし、城内の遊歩道は、杭が倒れていたり道がはっきりしない部分もあるので、気軽にハイキングというわけにはいかず、多少の気合は要る。