吉川経家墓
所在地  鳥取県鳥取市
鳥取県庁北1.2km
最終訪問日  1996/6/17
墓所内にある吉川経家を称える碑 天正9年(1581)の鳥取城攻防戦で、鳥取城の将兵の命と引き換えに切腹した吉川経家の墓。
 経家は、毛利元就の次男元春が相続した安芸吉川氏の庶流、石見吉川家の出である。本家の吉川氏は鎌倉時代から安芸の有力な国人として聞こえ、元就の正室が吉川氏の出であったように比較的古くから毛利氏と友好関係にあった。しかし、興経の代に去就が定まらず家中の動揺を招いた為、元就の次男で吉川氏の血を引く元春を養嗣子として迎え、毛利家臣となった。この時に経家の父経安も毛利家臣となり、毛利氏の石見経営に貢献している。
 経家が鳥取城に入城したのは、天正8年(1580)の織田軍による因幡侵攻後である。それまでの鳥取城には山名豊国が城主として在城していたが、この侵攻の時に籠城したものの勝算が無く、結局は独断で織田方に降伏した為、徹底抗戦を主張した家臣と対立し、豊国は追放されたとも、自ら逃走したともいう。豊国の退城は経家入城後という説もあるが、ともかく、その家臣達が毛利家から然るべき人間を城将として迎えることを乞い、最初は牛尾元貞が選ばれたが、負傷した為、改めて一族の中から名将として評価の高かった経家が選ばれ、毛利氏から城代として派遣されたのだった。
 経家が鳥取城に入城したのは翌9年(1581)の早い時期で、鳥取県の資料には1月とあるが、2月もしくは3月ともいわれている。手勢の4百人を率いての入城だったが、首桶を持参していたというから、既に死は覚悟済みであったのだろう。しかし、鳥取城には戦う以前の問題が山積みだった。まず、備蓄の兵糧が少なかった。そして、織田軍による第1次侵攻時の籠城の影響か、中間や人足に病気の者が多く、兵装も不足していた。しかも、この問題を確認した経家は近隣から兵糧や物資を集めようとしたが、秀吉が先手を打って高額で買い占めており、確保するにも物がないという状況だった。
 そのような状況の中、6月末か7月初めには秀吉軍2万余が鳥取に到着し、いよいよ渇殺しとも呼ばれる鳥取城の包囲戦が開始される。秀吉は、3里四方を土塁や柵、塀などで囲って外部との連絡を遮断し、鳥取城の出城である雁金城を落とした以外は、三木城と同様に戦いらしい戦いをすることなく包囲を続けた。一方、毛利氏は鳥取城に援助物資を船で送ったが、すでに秀吉軍が水上の輸送路を封鎖しており、ことごとく迎え討たれて補給することができず、やがて城内は人間の死肉を喰らうという極限の状態にまで陥った。城から脱出しようとした人間を秀吉軍が鉄砲で撃つと、絶命するよりも先にその肉を喰らう為に人が群がったという痛々しい逸話が残っているが、城内がどれほど凄惨な状況に置かれていたかがよく解る。
 やがて10月になると、秀吉から山名家臣中村春続と森下道誉が切腹して開城すれば城兵の命は救うという降伏勧告が届いた。経家の潔さと人望を惜しんだ秀吉は、経家が派遣された将であるということもあり、その命を助けようとして副将の責任を問うたが、経家は毛利を頼った城兵に顔が立たぬとして固辞し、自ら切腹を申し出たという。そして、10月25日未明、経家は鳥取城の城兵の命と引き換えに自害して果てた。享年35。
 経家の遺書は父や子に送られ、現存している。そこには、日本の武の境目で切腹するのは末代までの名誉となること、自身の命で諸人の命が救われるのは一門の名を揚げるので幸せであることなどが記されており、経家の清廉な人柄と、純朴な武人らしい心情が窺える。墓所は、当初は鳥取城内にあったが、江戸時代に移され、現在は住宅地と長閑な農村風景が混ざる静かな場所にひっそりと佇んでいる。だが、小さいながらも杜を持っており、経家のように1本筋を通した凛とした存在感があった。