日野城 所在地 滋賀県日野町
日野町役場東南2km日野川ダム北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2007/10/25
本丸跡にある稲荷社 蒲生氏の居城で、一般的には日野城だが、地元では中野城と呼ばれている。
 日野城を築城した蒲生氏は、古くから蒲生一帯を治めてきた一族という。そもそも蒲生とは、加茂や賀茂と同じく鴨族の住んだ場所という意味で、蒲生氏自身も、一般的な系図では藤原秀郷流とされているが、古代に蒲生郡一帯を開発したという蒲生稲置の末裔とする説がある。
 蒲生氏は、頼朝、尊氏といった時の権力者に与してこの蒲生の地で勢力を受け継ぎ、戦国時代には、近江守護の佐々木六角氏に仕えて信頼を得ていた。その頃の居城は日野城から数km東の音羽城だったが、文亀3年(1503)の伊庭の乱の際に当主であった貞秀を頼って六角高頼が身を寄せるなどしており、いかに信頼されていたかが窺える。その貞秀の死後、その次男高秀と嫡孫秀紀の間で家督争いが起こるが、高頼の子貞頼の支援を得た高郷が大永3年(1523)に勝利し、以後は高郷の流れが惣領となった。
 日野城の前身となる砦が築かれたのは、文亀年間頃から大永年間初期(1501-23)の間とされ、上記の2つの戦いのいずれかが関係しているのは間違いなさそうだ。家督争いが決着した後、高郷は日野城を本拠にしたというが、本格的に築城されたのは子定秀の時で、天文2年(1533)から翌年の事といい、同時に城の西側へ城下町が整備された。定秀は、六角氏の重臣として数多くの合戦に従軍し、特に対三好家の戦いでは目覚しい軍功を挙げているが、それだけではなく、日野椀や鞍の製造といった産業を育成して特産にしたり、鉄砲の有用性に着目して生産体制を整えたりしている。
 永禄6年(1563)、六角家では当主義治が重臣後藤賢豊を謀殺するという事件が起こった。世に言う観音寺騒動である。この時、定秀と子賢秀は、事件が原因で観音寺城を追われていた義賢・義治父子と、これに対立していた家臣や一族を仲介し、父子を観音寺城へ戻すことに成功しているが、これは国人勢力と守護との関係がより一層専制化から遠ざる結果となり、六角家の戦国大名化は決定的に遅れた。その為、永禄11年(1568)の信長による上洛戦で、六角家はあっさりと瓦解してしまっている。賢秀も、この上洛戦の際に六角家から離反し、嫡子を人質に差し出して織田家臣となっているが、上記の一連の流れから考えると必然の結果と言えるのかもしれない。
 その後、賢秀は近江や伊勢の攻略戦に従軍しているが、信長は賢秀の篤実さを気に入ったようで、安土城築城後にその留守居役を任せるなどしている。一方、人質となった嫡子も信長に早くから器量を認められ、信長の許で元服して賦秀と名乗り、信長の娘冬姫を正室とした。この賦秀が後の氏郷である。
 天正10年(1582)6月、信長は京都本能寺で明智光秀の謀叛によりその生涯を終えた。この時、安土城の留守居役であった賢秀は、信長の妻子を連れてこの日野城へと後退し、氏郷と共に防備を固めて光秀の攻撃に備えている。これに対し、光秀は見返りをちらつかせて味方になるよう説いたが、賢秀は頑なに誘いを拒絶したという。つまり、信長が期待した篤実さは、その信頼通り信長の死後に発揮されたのである。結局、光秀は山崎の合戦で敗死した為、日野城が攻められることはなく、その後しばらく経った天正12年(1584)に氏郷が伊勢松ヶ島へ転封となった為、城は廃城となった。
 現在の城は、日野川ダムの造成によってかなりの部分が破壊された為、本丸付近と堀を残すのみとなっている。橋が架かっている堀切を挟んで2つの郭があるが、これは規模が小さいが本丸と二ノ丸だろうか。それぞれに稲荷社と涼橋神社が祀られているが、どちらも江戸時代の元和6年(1620)から城跡へ陣屋を置いて明治まで続いた仁正寺藩によるものという。仁正寺藩主の市橋氏は、この本丸周辺を庭園として利用していたことから、城跡はある程度の改変を受けている可能性があり、石垣も当時のものか判断しかねる感じだ。現在も水を湛える堀がなかなかの規模というのを考えると、城自体はそこそこ大きかったと思われるが、やはりダム造成による損壊が広範囲だったのだろう。往時は眼下の日野川を堀代わりとし、城下町から続く緩やかな丘陵の突端に築かれ、城下町方向は堀などで防備を固めた近世城に近い造りであったように思うが、現在残っている遺構から想像するのはちょっと難しい。
城址碑と大きな空堀 城跡の東には日野商人の町並が続いているが、簿記技術が発達していた近江では、武士から商人になる土豪も多かった。六角旧臣であった三井家もそのひとつで、六角家滅亡後に旧知の蒲生家を頼って日野にいたらしく、氏郷の伊勢転封に従って松坂に移り、やがて高利が三越の前身である三井の越後屋を興すのである。日野時代の事跡は詳らかではなく、伊勢へ移ったのは家臣としてか商人としてかは不明だが、この静かな古城と経済界の巨大な名前が繋がっていることに、何となく不思議な思いがした。