吉野ヶ里遺跡
所在地  佐賀県三田川町・神埼町・東脊振村
JR吉野ヶ里公園駅西1.8km
最終訪問日  2001/11/2
巨大な主祭殿 吉野ヶ里遺跡は、昭和61年から3年かけて発掘された弥生時代の環濠集落で、約40haの広大な範囲が推定延長2.5kmの壕によって囲まれている。集落からは多数の高床式倉庫や住居の跡が見つかり、無数のかめ棺墓や首長を葬った墳丘墓も見られ、墳丘墓からは大陸との交易で得たとみられるガラス製の管玉や銅剣が発掘されている。
 だが、遺跡発掘までの道のりはかなり危ういものだった。戦前から古代の遺物が出土することは知られていたが、本格的な発掘調査もされぬまま農地造成などによって遺跡は破壊されつつあり、更に高校の移転予定地や工業団地の予定地なるなど、ひとつ間違えば今とは全く違った丘陵の姿になっていた可能性もあった。だが、その工業団地の計画による事前調査の発掘が昭和57年から進められ、4年後の本格発掘調査による遺跡の発見で事態は急転する。広大な範囲に遺跡が存在していることがはっきりすると、地元住民の保存運動が盛り上がり、新聞に取り上げられたことによって開発計画は中止され、平成3年には特別史跡に指定されたのだった。
 この遺跡の素晴らしいところは、弥生時代の前期から後期までの遺跡が一貫して発掘されたところで、稲作文化の到来で小さな集落が発生し、やがて都市国家へと大きく成長していく過程がよくわかり、弥生時代全般の様子が汲み取れる。また、古墳時代に入ると人々は平野を開拓して移り住み、集落が存在しなくなった為、後世の生活活動による破壊が抑えられ、結果的により弥生時代の遺跡が残ることになった。ただし、全く見向きもされなくなったのではなく、墳墓などが造営されていることからある程度は特別な地域として見られていたようで、律令制の時代には役所的な建物があったともいわれている。
 現在の遺跡は、遺跡保護の土が盛られたその上に、平成13年4月21日に国営公園16ha、県営公園31haの計47haで開園した吉野ヶ里歴史公園として整備されており、最終的には117haもの広大な歴史公園になる予定である。公園内には、弥生時代後期後半の最盛期、つまり、環濠内に更に特別な区域である北と南の内郭が誕生して物見櫓や主祭殿といった大型の施設が登場する3世紀頃の姿が復元されており、古代の息吹を知ることができる。
 訪れてみて思ったのだが、有史以前にこれだけ大きな規模の建物があったことが素直な驚きであるし、自分の予想を超えて弥生時代の文化的生活レベルは高かったのだなと感じる。また、自分が訪れた時にもツアー客や修学旅行生がわんさか来ており、その注目度高さがわかる。個人的には、邪馬台国は近畿に在ったのではないかと漠然と考えているが、これを見ると、邪馬台国が北九州にあった重要な根拠という説にも納得がいく。