獅子ヶ城 所在地 佐賀県厳木町
JR厳木駅西南2km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/30
獅子ヶ城縄張図 獅子城や獅子ヶ岳城とも書き、治承から文治年間(1177-90)頃に、松浦党の始祖源久の孫で、峯氏や平戸松浦氏の祖とされる披が築城したと伝えられる。
 披の子持の時に居城を平戸へ移した為、一旦廃城となったが、戦国時代に少弐家から自立しつつあった佐賀郡の龍造寺氏が勢力を伸ばしてくると、首領の波多氏を始めとする上松浦党は、党の中から武勇の誉れ高い鶴田前を龍造寺氏への抑えに任じ、天文14年(1545)に前は城を復興改修して城主となった。ただし、この再興の少し前にも争奪があったといわれ、砦程度の機能はあったのかもしれない。
 その後、波多氏の家督相続に関係した鶴田一族と波多氏の対立や、龍造寺家の没落などがあったが、龍造寺家は当主を務めた老将家兼と曾孫隆信の奮起によって再び隆盛となり、再び獅子ヶ城を巡って争うようになる。これに対し、獅子ヶ城主の前は勇将として名の通った武将で、龍造寺軍相手にも引かなかったが、やがて天正元年(1573)か翌年には隆信に対して和睦降伏し、城にも龍造寺家臣を迎え入れた。
 この頃、上松浦党の波多氏は龍造寺氏と結んだり対立したりしていたが、天正4年(1576)に有馬氏と結んで波多鎮(親)が伊万里氏や有田氏らと共に獅子ヶ城を攻め、この時に前は討死している。家督は前の長子である賢が隆信の後援によって継ぎ、やがて敵対した波多氏も隆信と婚姻したが、天正12年(1584)の沖田畷の合戦で隆信が敗死した後、鶴田氏は龍造寺配下から独立した波多氏に再び属したようだ。しかし、波多氏も朝鮮の役で失態を演じて文禄2年(1593)に関東へ追放となり、領地と主君を失った賢は龍造寺一族の多久安順に従って別府に移った為、廃城となった。
 城は周囲を断崖に囲まれた標高196mの独立峰に築かれ、立地からして非常に天険である。本丸からは遠く上松浦党波多氏の居城、岸岳城を望む事ができ、上松浦党にとって重要な場所に位置する城であったというのがよくわかる。
 城の構造は、北西の最高地に一段高い本丸とそれに続く二ノ丸を置き、二ノ丸から一段下がってそれを囲むように三ノ丸を配している。さらに、本丸の南西側の下には一ノ郭、二ノ郭とあり、大手方向には出丸を備え、山上の城の割に削平された場所を多く備えた堅城である。また、これらは殆ど石垣でできており、廃城時期が比較的早かった割に戦国末期の山城としては設備が整っていて、なかなか見ごたえもある。
木々に埋もれるようにある本丸の石垣 現在は出丸付近まで車道があって登城は比較的容易になっており、訪ねた時は本丸で発掘作業が行われていた。石垣や竪堀、虎口や井戸など、往時の姿を色濃く残している遺構は良い状態で保存されており、戦国時代真っ只中に構築、改修された山城の史料としても価値が高いと思われるが、何よりも木々の中に整然と並ぶ郭や石垣というのは古城の佇まいがなんとも言えない趣となっていて、無名でそれほど期待していなかっただけに感動を覚えた。ただし、天険故に危険な場所も多いので、訪れる時にはしっかりした靴を履いたほうが良いだろう。