名護屋城 所在地 佐賀県鎮西町
鎮西町役場北西800m
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/31
大手門跡と城址碑 元の城は垣添城といい、上松浦党首領波多氏の家臣であった名護屋経述の居城だった。
 朝鮮出兵にあたり、秀吉が天正19年(1591)に陣城として加藤清正や黒田如水などに縄張させ、九州の諸大名を中心に動員して大規模に垣添城を拡張したのが名護屋城である。城は突貫工事によって半年ほどで完成し、その直後の翌年4月には第一陣の渡航が開始されている。
 城の構造は、安土桃山期の壮大な平山城の様式で、五層七階の天守を持つ本丸を丘陵北西端に置き、これを中心にして西に二ノ丸、東に三ノ丸を配置している。三ノ丸の北側には居住空間である山里丸、更に北に台所丸があり、天守閣の下に二ノ丸から独立した遊撃丸や水手郭を設け、二ノ丸南に搦手口を持つ弾正丸があった。これらのほとんどが広大な面積を持った郭で、当時は大坂城に次ぐ規模の城として櫓や書院、城門、数奇屋等が立ち並び、壮大な美観であったという。また、周辺半径3kmの範囲内に160余人の大名の陣があり、それら将士の糧食を賄う為に麓には市が立った為、突如として大規模な消費都市が出現した。
 秀吉の死去によって慶長3年(1598)に朝鮮出兵が終わると、この城は役目を終えて廃城となり、伊達政宗が大手門を拝領して仙台城に移築したように、建物の多くが各地の城に移築された。江戸時代に入ると、寺沢広高が唐津城改修の為に資材を持ち出し、寛永15年(1638)の島原の乱後には、乱で本拠とされた原城と同じ様に叛乱勢力に利用されるのを恐れた江戸幕府から破却を受けたという。
 現在は城域すべてが史跡となっており、野面積みの石垣と整備の手が届いた城内は良い雰囲気を醸し出している。石垣は、江戸時代の持ち出しや破却によって部分的に崩れている箇所も多いが、石垣上部の部分だけが欠けているものは、他の九州の古城にも見られるように、島原の乱後の破却によるものだろう。これらの破壊によって天守台などはほぼ平坦になってしまっているが、それはそれでうらぶれた古城の趣があって決して悪くない。また、史跡の入口近くには資料館も建ち、周辺には大名が生活した陣跡も120ヶ所以上確認され、内23ヶ所が国の特別史跡に指定されている。

本丸と壊されて平たくなった天守台