基肄城跡
所在地  佐賀県基山町
九州道基山P.A.西2km
最終訪問日  2001/11/2
 大野城と共に大宰府防衛の為に築かれた朝鮮式山城。日本書紀には椽という字があてられている。
 百済は斉明天皇6年(660)に唐・新羅連合軍に敗れて滅亡したが、遺臣鬼室福信が再興の兵を挙げ、朝廷は人質として来ていた豊璋王子を護衛しつつ反乱軍と合流させる為、援軍を送った。しかし、出陣翌年の天智天皇2年(663)、白村江の戦いで全滅ともいえるほどの大敗を喫し、その結果、百済は完全に滅亡、日本も朝鮮半島の友好国を失った。
 この敗戦後、朝鮮半島に百済という緩衝地帯が無くなった事により、唐・新羅連合軍の攻撃が現実味を帯びたと感じた朝廷は、百済の亡命貴族で達率という位にあった憶礼福留や四比福夫らの指導で、同4年(665)に大宰府を中心とする防衛網を構築した。
 基肄城は長門城、大野城と共に、この時に構築された朝鮮式山城で、基山を中心とした標高400m前後の峰に跨って築かれ、南に開く谷を囲むように稜線に沿って約4kmの土塁と石塁で囲み、南北に2ヶ所ずつ計4ヶ所の城門と、40棟以上の建物を備えていたという。また、城を守る防人は5百から千人ほどいたとされ、基山の麓を本拠として基肄軍団を形成していたらしいが、朝鮮半島や中国への懸念が減少するにつれて存在意義が薄れ、時期ははっきりしないものの、9世紀中頃には廃城になったという。
 訪れた時は、地図が詳細でないのもあって中腹辺りまでは行ったものの史跡までは辿り着けなかったが、今では遊歩道やスキー場が整備されているらしい。史跡は広大な範囲に渡っているので、恐らく山を散策すれば丸1日かかると思われるが、山に登る途中で断念したこともあり、いつかは訪れたい史跡である。