唐津城 所在地 佐賀県唐津市
JR唐津駅北東1.2km
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/10/30
資料館を兼ねる唐津城天守閣 唐津のカラは、朝鮮半島南部にあった任那を表す加羅と語源が同じで、時代が下ると朝鮮半島、ひいては中国を表すようになったが、古代より唐津には壱岐対馬を通じて朝鮮半島に渡る港という意味があったのだろう。遥かなる古代に、神功皇后が朝鮮半島に向けて船出したのもこの辺りと伝えられている。
 平安末期から北肥後には松浦党と呼ばれる小豪族の連合体が生まれ、この唐津も水軍を主力とする松浦党にとっては重要な港であった。唐津城のある満島山には、上松浦党の主力で岸岳城を本拠とする波多氏の支城がもともとあったといい、天正14年(1586)には松浦鎮信の軍勢2千を撃退している。おそらくは水軍の根拠地として海に面した満島山を使い、松浦川を遡って岸岳城と連絡していたのだろう。
 波多氏が文禄の役から帰国してすぐの文禄2年(1593)に改易となった後、秀吉の側近である寺沢広高が代官として唐津一帯を治め、翌々年には正式に所領として与えられた。寺沢氏は、紀氏の末孫という伝承を持つ尾張の地侍出身で、最初、父の広正は信長に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変後、子の広高と共に秀吉の家人となった。目立たない功の割に大きな封土を得ているのは、譜代衆のいなかった秀吉が加藤清正や福島正則といった子飼いの将を次々と大名に取り立てて藩屏としていった政策の一環と考えられ、広高も同様に優遇されたことによる。だが、これら子飼いの将がやがて武断派と文治派に分かれたことによって家康に付け入る隙を与え、慶長5年(1600)に至って関ヶ原の合戦を誘発するに至るのだから、結果的に言えば、秀吉による人事にやや配慮が足りなかったということになるのだろう。
 築城は、名護屋城の後詰という意味もあって広高の入部後すぐに開始され、九州大名も普請に加わって突貫工事で完成している。関ヶ原の合戦では、広高も武断派として東軍に属して出陣し、功によって戦後は4万石を加増された。この加増を受け、広高は慶長7年(1602)から城の本格的な改修に取り掛かり、朝鮮出兵後に廃城となっていた名護屋城の資材を活用して慶長13年(1608)に完工した。しかし、寺沢氏は寛永14年(1637)から翌年にかけて発生した島原の乱の責任で天草郡を没収され、藩主であった広高の子堅高が自刃した為、嗣子なく断絶となった。この自刃の原因は、経済的な理由や統治の重圧による心労とされ、発狂して自殺したともいわれる。
 寺沢氏の断絶後、幕府はこの地を要地として、大久保、大給松平、土井、水野といった譜代諸氏を藩主とし、天保の改革を行った水野忠邦も一時藩主となっているが、忠邦は唐津藩の負う長崎警備の役目が幕府役職就任への障害となるや、自ら願い出て浜松へ移っている。この水野氏の移封の後は、小笠原氏が代わって入部し、維新まで続いた。
 城は、海際の標高43mの満島山にあり、大きく本丸、二ノ丸、三ノ丸、外郭に分かれ、二ノ丸に藩主居住区と政庁、三ノ丸に藩士住居があり、そして外郭に町人が住んだ。城の主要部を成す満島山は、もともとは今の虹の松原である東の砂州と干潮時に繋る島で、松浦川も島の西に河口があったが、築城の際、治水と防御上の理由から運河を掘って松浦川の流れを変えつつ周辺の川を合流させ、島の東側で海へ出るようにした為、現在のような本丸が海に突き出た海城の形となった。また、城の本丸には天守台があるが、幕府の記録には天守を持たない城と記載されており、一般的には建てられなかったと考えられている。だが、築城当初は存在したという説もあり、それを根拠にしたのか昭和41年に五層五階の慶長様式で模擬天守が建てられ、今や唐津の象徴となっている。
 維新後、明治4年の廃藩置県で廃城となり、城内の建物は払い下げや取り壊しで姿を消したが、現在でも唐津市内には多くの石垣が残り、堀や史跡が城下町としての雰囲気を醸し出している。東西の松原を翼に見立てて舞鶴城とも呼ばれたことから、城跡は明治10年に舞鶴公園として整備されており、公園から少し離れた三ノ丸にも辰巳櫓が復元されている。
 日本三大松原のひとつとして城の東に広がる虹の松原は、初代藩主であった広高によって防潮や防砂、防風の為に植林されたのが始まりとされるが、この松原から見る山上の天守閣はとても絵になる。もしかすると、広高も植林を指揮しながら山上にそびえる城の威風を楽しんだのかもしれない。