臼杵城 所在地 大分県臼杵市
JR臼杵駅北西300m
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/11/9
臼杵城縄張図 臼杵地方には、平安時代に大神一族の臼杵氏がおり、その系図は諸説あってはっきりしないものの、源平争乱時に活躍し、後に義経を先導して捕らえられた緒方惟栄の兄にあたる臼杵惟隆は、吾妻鏡にも名が見えるほど著名である。それ以前の臼杵には、戸次と共に臼杵戸次荘として九条家の荘園があったので、恐らくは大神一族が開墾したものを九条家に寄進し、自らは在地の管理人となって臼杵を名乗ったのが臼杵氏の始まりだろう。
 惟隆は惟栄と共に頼朝に捕らえられ、放免された後の晩年の詳細は不明であるが、その直系か傍系かは分からないものの、鎌倉時代に臼杵氏が存続したのは確かなようである。また、南北朝時代、臼杵直氏の養子に大友氏2代親秀の子戸次重秀の曾孫時直を迎えたことが史料に残っており、以降は大友氏の一族衆として活躍している。一方、鎌倉時代の臼杵地方は、領家は九条家もしくは一条家であったが、地頭には臼杵氏ではなく北条得宗家が一貫として就いていたようで、その後室町幕府の直轄を経て、大友氏が領するようになったと見られる。
 この室町時代の史料上に、臼杵氏の居城と思われる臼杵城の名前があるが、それがこの地にあったものかは分からない。また、弘治年間(1555-58)には宗麟の館が焼失したという記述があり、軍事施設として整備する前に居館があった可能性もある。
 現在残っている城は、永禄5年(1562)に大友宗麟が居城として形作ったものとされ、居城を移したことについては、対決中であった毛利氏への備えや、南へ進出する際の拠点、直後に出家して宗麟と号したことからキリスト教へ入信しないという表明、隠居準備など、様々な理由が挙げられている。その最も有力なものは毛利氏に対する備えという説だが、府内の居館の防御が不安といっても、すぐ西の峻険な高崎山に詰城があり、大友水軍が毛利水軍に対して圧倒的ではないのに海城に居城を移すというのは、個人的には理由として薄いかと思う。
 城が完成した後、宗麟は隠居して居城としていたが、実権は未だ宗麟のもとにあってこの城で院政を敷いた状態となり、府内にいた義統との、このような二重権力構造が政策決定の速度や意思の疎通を欠き、大友氏凋落の一つの要因になったともいわれる。
本丸と二ノ丸の間の大きな空堀 その凋落の転機となった耳川での敗北以降、島津氏の北上による圧迫に苦しみ、中央の秀吉に助けを求めた宗麟だったが、九州征伐の前哨戦であった天正14年(1586)の戸次川の合戦では、秀吉配下の四国勢と大友氏の連合軍は大敗を喫し、義統を追って府内を掌握した島津家久に丹生嶋城下まで迫られている。しかし、宗麟は寡兵ながら大砲を投入して機先を制し、兵を突撃させてなんとか島津軍を撃退した。ちなみに、これが大砲の実戦投入の最初らしい。
 だが、この戦いの翌年に九州征伐が完了した後、すぐに宗麟は死去してしまい、義統も朝鮮の役の不始末で改易された為、結局大友氏は滅亡することとなった。大友氏の改易後、その領地は分割され、丹生嶋城には文禄3年(1594)に福原直高が入部し、3年後には府内城へ移った直高に代わって太田一吉が入部するのだが、直高は石田三成の妹婿もしくは娘婿で、一吉は三成と個人的に親しかったとされており、府内や丹生嶋といったかつての大友氏の本拠地は、まるで三成閥の城のようになっている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、一吉は三成との個人的な関係がありながらも、子一成を西軍に属させつつ甥政成を東軍に送るという老獪な手を打ち、自らは病気と称して城に籠った。しかし、三成との関係が疑われたからか、東軍の岡城主中川秀成に攻撃され、一戦交えて意地を見せた後、黒田孝高に城を明け渡している。
 関ヶ原の合戦後、改易となった太田氏に代わって丹生嶋城に入部したのは稲葉貞通で、稲葉氏は臼杵を領して維新まで続いた。明治6年に城の建物類は取り壊されるが、その入部時には三層四階の天守を始め、31の櫓があったといい、北九州を席巻した大友氏の威容がその規模にわずかながら残っていたようだ。
 臼杵湾に浮かぶ丹生嶋に築かれた城は、築城当時は干潮の時に砂州によって陸と繋がるという海城で、当時は丹生嶋城と呼ばれ、丹生島城の字もあてた。島には大きな空堀で区切られた本丸と二ノ丸があり、東西485m、南北170mの絶壁に囲まれた細長い構造であったが、後に埋め立てによって陸側に三ノ丸が造成され、典型的な近世平山城の形式となった。
 現在は周辺が全て埋め立てられ、海城としての面影は無いが、本丸と二ノ丸の間の空堀と石垣、卯寅口門脇櫓、西南隅櫓である畳櫓等が現存して当時を僅かに偲ばせる。また、本丸、二ノ丸跡が臼杵公園として整備されていて、訪れた時はやたらグランドゴルフをしている人が目に付いたが、その他にも散策などで訪れている市民は多かった。