栂牟礼城 所在地 大分県佐伯市弥生町市境
JR上岡駅北西1.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/11/8
栂牟礼山の案内図 豊前、豊後の大族大神氏の一族で、佐伯荘の地頭を任ぜられた佐伯氏の本拠。
 伝承では、源平の争乱の頃に活躍した緒方惟栄の裔とされ、義経先導の罪によって上野国沼田に配流された後、許されて豊後佐伯に住して佐伯を名乗ったとしているが、赦免後の惟栄の動向は不明で、佐伯氏が大神一族の出であるのはほぼ間違いないが、惟栄の子孫であるかどうかは怪しい。
 城の築城は南北朝時代とも、城の名が初めて登場する10代惟治の時の大永年間(1521-28)ともいわれるが、佐伯氏が大友氏の家臣となったのは鎌倉時代にまで遡る。以降武門の家として多数の合戦に参陣し、惟治の父惟世の時には豊後に侵攻してきた大内軍を撃退している。
 しかし、惟治の代であった大永7年(1527)、大友義鑑に謀反の疑いをかけられて2万の大軍に城を包囲され、天険であった城は落ちなかったものの、惟治は総大将臼杵長景の説得によって日向高千穂に落ち延びた挙句、謀略によって父子共に殺された。この事件に関する史料が少ない為、謀叛讒言説や大友宗麟と対立していたその叔父菊池義武と結んだという説、後に佐伯家を取り潰さずに甥の惟常が継いでいる事から佐伯家内の家督争い説などがあるが、真相ははっきりしない。地元には、惟治は文武両道に秀でた名将というものと、暴君であったという2つの伝承が残っているが、悪評は勝者の大友氏側から流布されたものであろうから、惟治の勢力台頭を嫌った義鑑が、上記の内のひとつ、もしくは複数を理由として勢力削減を狙ったというのが真相ではなかろうか。そうだとすれば、他の大名でも見られるように、戦国大名としての専制体制を築く上で、独立心の強い国人を家臣団化していく過程の出来事といえる。
 民間の伝承では、総大将だった長景は惟治の呪いによって死んだことになっているが、史実では長景が惟治の甥惟常を呼び寄せ、佐伯家存続に尽力している。そして佐伯氏は、惟常以降5代に渡ってこの城を本拠とし続け、惟常の孫惟教は大友氏の二階崩れの変の際、いち早く義鎮を擁立して豊後府内を収拾した功によって信頼を得、同紋衆と他紋衆で争った姓氏の争いで一時伊予西園寺家に逃れたものの後に帰参を果たし、重臣として活躍した。また、その孫惟定は、耳川の合戦で惟教・惟真父子が討死した後、北上してくる島津氏に断固として抗戦し、度々撃退して秀吉に賞された。しかし、朝鮮出兵の際の不手際によって大友氏が改易されると、佐伯氏は藤堂家に仕えてこの地を去り、城も慶長6年(1601)に入部した毛利高政によって新たに翌年から佐伯城の築城が開始され、廃城となっている。
 余談だが、この佐伯氏の支流に惟寛というのがおり、大友氏改易後、毛利氏を頼って中国地方に流れ、やがて備中国足守に帰農したが、子孫は足守藩に仕えた。江戸時代末期に、この家系から大阪で適塾を開いた緒方洪庵が出ているが、その名字は緒方惟栄の末裔であるという家系伝説を意識したものかもしれない。
本丸跡の城址碑と祀られた小さな社 城は典型的な中世山城で、非常に峻険な標高約220mの山頂に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲は堀切と二つの出城によって防御を固めている。規模自体はそう大きくないが、勾配が非常に厳しい上に、礫質の滑りやすい山肌で足場が悪い為、攻城には苦労しただろう。
 現在は3本の登山ルートが確保されているが、車道は麓までで、小石で足が滑る中を丸々ひと山登ることになる為、なかなか難渋する。だが、小さな社が祀られた頂上本丸跡からの景色は抜群で、登山の達成感を存分に味わえ、難攻不落の城であるということを身をもって実感できる。