佐伯城 所在地 大分県佐伯市
佐伯市役所西800m
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/8
山上の外郭から見た本丸の石垣 別名鶴城、鶴屋城ともいい、築城は慶長6年(1601)佐伯藩2万石に封ぜられた初代藩主毛利高政による。
 この高政は、秀吉子飼いの武将である。天正10年(1582)、備中高松城を水攻めしていた秀吉は、本能寺の変の際に毛利氏と和睦したが、その和睦を保障する人質として毛利氏へ出された。高政はこの時、毛利輝元に気に入られて毛利姓を与えられたとも、自ら毛利氏にあやかって元の森姓から変えたともいわれており、毛利家との血縁的な繋がりは無い。
 高政が佐伯に入部したのは関ヶ原の合戦後で、もともと佐伯には大友家臣佐伯氏が居した栂牟礼城があったが、中世からの純然たる山城であった為、高政はこれを廃し、海港として発展可能なこの地を選んで築城した。
 城は、番匠川近くの標高140mの山頂に三層の天守がある本丸を置き、尾根沿いの西南に二ノ丸と西ノ丸を、北東に北ノ丸を配した総石垣造で、この時期に改修などではなく新たに築城された城は平山城が多かったのに対し、珍しいことに標高が高い中規模の近世山城であった。
現地案内板にある城の鳥瞰図 完成は建設開始から4年後の慶長11年(1606)だが、程なく失火で本丸と二ノ丸が焼失し、寛永14年(1637)には山城の不便さを解消する為、他の山城にも見られるように山麓の三ノ丸へ居館を移して平山城の形式となり、三ノ丸を以降の藩政の中心とした。
 城は明治4年の廃藩置県で廃城となったが、現在も三ノ丸櫓門が建造物としては残っており、山上の石垣も完全な形で残っている。この石垣は、播州の石工をわざわざ呼び寄せて築いた物といわれ、2万石の小大名にしては身上以上の規模を持ち、その野面積は近世城郭には珍しく武骨ながら美しい。
 訪れた時は、急峻な坂を登った山頂では小学生が写生大会を開き、麓では中学生がマラソンをしていて、市民の日常に溶け込んだ城址公園という感じだったが、佐伯市街にはかつての城下町の雰囲気も若干残されており、周辺を散策してもなかなか楽しめる。

山頂の城から佐伯市街