岡城 所在地 大分県竹田市
竹田市役所東南1km
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/8
大手と城址碑 頼朝と不和になった義経を迎える為、緒方惟栄が文治元年(1185)に築いたという伝承があるが、その頃、惟栄は京都にいて後白河法皇の命で義経に従い、同じく頼朝と対立した行家らと共に西国へ下向しようとして捕らえられ、上野国沼田へ流されたとされるので、築城したという確証は無い。また、惟栄は豊後の大族大神一族の出身である為、大神一族によって築かれた可能性はあるが、周辺の地形から考えると、相当峻険な山砦に近い形態であったはずで、築かれたとしても長期間ではなく、一時的な防御という性格の施設であったのだろう。実際のところ、城がいつ頃築城されたかというのは確定できないが、建武期には志賀貞朝が岡城を修理して戦ったという記述があり、鎌倉末期頃には城として存在していたと考えられる。
 志賀氏は、大友氏の祖である能直の子能郷を祖とし、大野荘志賀に住して名字としたのが始まりだが、この能郷の嫡子泰朝が志賀本家を継いで後に岡城の北志賀と呼ばれ、同じく能郷の子禅季に泰朝の子朝郷が養子となってそれを継いだのが南山城の南志賀と呼ばれた。両家は守護大名となった大友氏の有力な庶族として惣領家を支え、前述の建武期の貞朝の2代後である氏房が、応安2年(1369)に直入郡の代官職に就いて木牟礼城に進出し、後に岡城を本拠とするようになったとされる。室町時代以降も志賀氏は大友氏によく仕え、同紋衆として北九州に覇を唱えた大友家家臣団の中核を担い、大友氏が天正年間(1573-93.1)以降に斜陽となった後も支え続けた。
折り重なるように山上にそそり立つ高石垣 天正14年(1586)からの島津軍の侵攻に対しては、豊後諸豪族が島津に靡く中、若干18歳の当主親次は岡城で徹底抗戦を続けて滑瀬橋や鬼ヶ城で島津軍を撃破し、秀吉から感状を受けている。この時の籠城軍は千名程度であったとされるので、城も千名で堅固な守備力を発揮できる程度のそれほど大きくない規模であったと思われ、石垣や建物などの施設もそれほど近世的なものは無かったのだろう。
 九州征伐後は、豊後一国を与えられた大友義統の家臣として志賀氏も生き残ることができた。だが、朝鮮出兵の際の不手際によって義統が改易されると、志賀氏もこの城を去り、文禄3年(1594)には播州三木から中川秀成が入部することとなる。
 秀成は中央の築城技術を導入して城を近世城郭への大改修を行い、本丸から三ノ丸という城の基本的な部分を整備し、本丸の三層天守を始め、随所に櫓を設けた。寛文3年(1662)には、西ノ丸御殿が建設されてそれ以降の城の中心となり、7万石の城としては不相応なほどの、重臣の屋敷を包含した石垣造りの壮大な城が完成し、中川氏が明治まで居城としている。
 城は稲葉川と大野川に侵食された比高約100mの溶岩台地上に造られている為、周囲を断崖に囲まれる要害でありながらも、城地は平坦で広く、そこに反りを持った打ち込みハギの壮大な石垣が並ぶ。本丸と天守を囲むように二ノ丸、三ノ丸があり、江戸初期に増築された御廟所が東に、後の中心となる西ノ丸が西にある。特に西ノ丸は本城部分よりも大きく、周囲に3つの家老屋敷を配した広大な規模を持っており、本城部分から眺めると壮観だ。その他には、新旧城門跡もなかなか見ごたえがあって良い。
二ノ丸にある荒城の月を作曲した滝廉太郎の像 岡城といえば荒城の月のモデルとして有名だが、明治7年に城の建物は払い下げられて取り壊されていたので、滝廉太郎が過ごした明治中頃には、まさに荒城となっていたのだろう。
 廉太郎は東京生まれで、役人であった父の転勤によって12歳から15歳という僅かな期間を竹田で過ごしただけであるが、竹田の城下町には、滝廉太郎記念館や自身が住んでいた旧宅などがあって観光名所となっているほか、城の二ノ丸にも像があり、まるで岡城を見守っているようである。