中津城 所在地 大分県中津市
中津市役所北1km
区分 平城・水城
最終訪問日 2001/11/9
中津城の模擬天守 中津の地には、中世には中津氏という土豪がいたが、どこに本拠を構えていたかなど詳しいことは分かっておらず、中津城の場所には犬丸城があったともいわれる。また、黒田氏以前に中津城の文字を散見することができるが、この犬丸城と同義なのかは分からない。
 この中津城を築いたのは秀吉の軍師として有名な黒田如水こと官兵衛孝高で、孝高は播磨国の豪族小寺氏に仕え、勢力を伸ばしてきた織田家の中国方面軍を率いる秀吉と懇意になり、居城であった姫路城を明け渡して協力した。播州の豪族は当初織田家に味方したが、やがて毛利方へ転じ、播州平定戦や三木の干殺しと呼ばれた三木城籠城戦へと繋がっていくが、これによって主家が滅んだ為、これ以降孝高は秀吉の配下となり、軍師としての才能を発揮していく。
 孝高が中津を与えられたのは九州征伐後の天正16年(1588)だが、家臣の封土を割と大きく与えていた秀吉にしては、その功績に比して16万石というのは少なく、秀吉が自身の亡きあと天下を得るのは官兵衛であると言ったという挿話があるように、その智謀は警戒されていた節がある。また孝高も、その話を伝え聞いてすぐさま如水と号して隠居したとされるように、自身が警戒されているというのを知っていたのだろう。
 それはともかくとして、豊前6郡を拝領した孝高は、その治所として中津城の築城を開始したが、九州征伐で秀吉につきながら伊予への転封を拒否した城井宇都宮氏の反抗などがあってなかなか捗らなかった。結局、城井宇都宮氏は誘い出されて謀殺されるのだが、城井谷崩れと呼ばれるその悲劇もこの城で起きた事である。
 秀吉亡き後の慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、孝高の嫡子長政は東軍についたが、孝高は豊前にあり、倹約して貯めた金銀を軍資金に兵を集め、大友再興軍の攻撃を受けていた細川家臣松井康之の杵築城軍と連合して、九州の関ヶ原と呼ばれる石垣原の戦いで大友再興軍を撃破した。その後も、城主が出陣して手薄となった西軍の城を瞬く間に抜いていったが、本戦集結後は、何事もなかったように抜いた城を家康へ献上し、孝高は悠々自適の暮らしを送って何も語らなかったという。だが、この謎の行動には昔から諸説が出され、東軍と西軍が中央で膠着している間に九州で第3勢力を築き、天下を取る為に上洛する目論見であったというのが一般的だ。真偽はともかく、逸話でも、家康が我が手を取って功を労ったと長政が話した時、孝高が反対の手は何をしていたと返した、つまりなぜ家康を刺さなかったのかと聞いた話が伝わっている。
 関ヶ原の合戦後、豊前と豊後の一部を得た細川忠興が中津に入城したが、すぐに陸海の交通の要衝であった小倉へと本城を移し、中津には嫡子忠利を入れた。忠興は隠居後に忠利と交代して再び中津城に戻り、黒田氏時代から続いた工事を完成させたが、細川氏の熊本への転封に伴って八代へと移っている。その後、細川氏に代わって小笠原忠政が小倉に入部すると、それに合わせて忠政の甥長次が8万石で入部し、小笠原氏が幼主夭折で移封後は、奥平氏が入部した。このように、九州探題と目された小倉藩同様譜代が入部する城で、九州外様大名を監視する小倉藩の補佐が期待されていたのだろう。その奥平氏は、維新まで続いたが、明治3年に廃藩置県に先立って廃城を願い出て、城は廃されている。
 城は、山国川の河口にあるデルタ状の三角州付近に築かれ、支流の中津川に面して本丸を置き、北から南へ扇状に城域を広げていた為、扇城の別名を持つ。また、堀には水門より海水を入れいる為、潮の干満によって水位が上下する水城で、日本三大水城のひとつにもなっている。
 現在は内堀より内側が中津公園として残っており、城の石垣は黒田時代のものと、忠興が増築したものが混在し、その上には昭和39年に造られた地下1階地上5階の天守が建つ。この天守は復元ではなく模擬天守で、古絵図や貝原益軒の文書を見ても天守はなく、もともと中津城には天守はなかったようであるが、細川氏時代の築城工事関係の文書の中に天守というのが僅かながら出てくるので、短い期間存在し、一国一城令に遠慮して解体した可能性も残る。
 また、この模擬天守は新たにデザインされたものだが、面白いのは、ありがちな白亜の建物ではなく豊臣系の黒壁というところだ。もともと存在したかどうかは別として、孝高が築城したという歴史に不思議と似合っている。城跡に鎮座する奥平氏を祀った奥平神社所蔵の品々を天守内に展示してはいるとは言え、内部の鉄筋コンクリートの冷たい感じは本物の木造天守と比べようもないが、雰囲気を無視した模擬天守も多い中、城の外観をこのような優美な姿にデザインされると、模擬天守もなかなか侮れない。