永山城 所在地 大分県日田市
日田市役所北西1.3km
区分 平山城
最終訪問日 2018/10/17
永山城の石垣の遠景 三隈三山のひとつ月隈山に築かれた城。当初は丸山城と名付けられ、後に永山城と呼ばれた。
 築城は、慶長6年(1601)小川光氏による。光氏は近江出身の小川祐忠の子で、父は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍から東軍に寝返って大谷吉継隊に襲い掛かった四将の内のひとりであるが、事前に寝返りを約束していなかった為に改易された。しかし、光氏は叔父一柳直盛の取り成しもあって、兄とも弟ともいう祐滋に代わって家督を継ぐことを許され、翌年に日田に入部し、この時に築かれたのが永山城である。ただし、竣工して入城したのは3年後という。また、この時の光氏の入部は、天領の代官としての赴任という説もある。
 日田入部後、光氏はこの地を差配したが、その期間は短く、慶長15年(1610)に病没してしまい、無嗣断絶となってしまった。その後は、元和2年(1616)に石川忠総が入部するまで一族が領地を管理したといい、また、石川氏が寛永10年(1633)に佐倉へ転封した後も、光氏との繋がりは不明ながら小川姓の人物が代官として赴任しており、この事が光氏の代官説の証左ともされている。
 城自体は、石川氏時代はその首府として使われ、改修もされたが、忠総転封後は中津藩の預かりとなり、前述のように代官支配となった後の寛永16年(1639)に廃城となった。以後は治所として月隈山の麓に陣屋が構えられ、日田藩が置かれた時期もあったが、江戸時代は概ね天領となっている。
永山城と観光地になっている豆田の案内図 城のある月隈山は、花月川を南に、渡里川を西から北に天然の外堀として廻らせており、月隈山の山頂に本丸、西の中腹に二ノ丸、南麓に広い三ノ丸を構えていた。全体的に見れば、コンパクトに纏まっている城であり、西南北には川筋があって万全だが、これに比べて東側は手薄な印象がある。廃城が早かったのもあって築城当時の全体像が明確には判っていないのだが、東側に何らかの防御設備があったのではないだろうか。当時は城下町が東側にあったといわれており、寺院を効果的に配して櫓の代わりとするなどしていたのかもしれない。
 現在の城は、月隈公園として整備されており、石垣や堀などが遺構として残っているが、見る限りでは寛永14年(1637)から翌年にかけての島原の乱の後に破却はされなかったようだ。西日本の城は、一揆方に利用された原城の二の舞を防ぐ為に、島原の乱の後に破却を受けている城が非常に多いのだが、当時の永山城は主のいない状態である上に廃城直前であったものの、治所として認められていたのだろう。その証拠に、日田藩主として天和2年(1682)に入部した松平直矩が石垣を改修していることも判っている。
 訪れた時は、熊本地震の影響で崩落した石垣の補修工事中であり、残念ながら三ノ丸までしか入ることができなかった。補修が完了した暁には、日隈城や日田城と共にもう1度訪れたい城である。