杵築城 所在地 大分県杵築市
杵築市役所西1km国道213号線頭上
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/11/9
江戸時代の杵築城縄張図 大友氏2代親秀の六男親重が、建長2年(1250)に速見郡の武者所として木付荘に赴任したのが木付氏の始まりとされるが、一説には親重は速見を名乗り、子の能重が木付を称したともいう。最初は竹ノ尾に城を築いたが、その後、4代直頼が応永元年(1394)にここへ城を移し、木付城とした。別名台山城、臥牛城ともいう。
 以降木付氏は、同じく国東半島に所領があった田北氏や田原氏と共に、宗麟の代に北九州6ヶ国を制した惣領大友家の一族庶家として家臣団の中核を成した。大友家の凋落が激しくなった天正年間(1573-93.1)中頃以降でも、木付氏は離反せずに北上する島津家と戦い、天正15年(1587)に16代鎮直が島津家臣新納忠元の猛攻を籠城の末に撃退して宗麟に激賞されている。この時、縁起を担いで城には勝山城という名も付けられたという。
 しかし17代統直の時、朝鮮出兵で子の直清が討死した上、宗麟の子義統が失態を演じて除封され、それを嘆いた統直は帰国途中に門司の浦で入水自殺したとも自刃したともいわれる。この統直の自殺を聞いた父鎮直は妻と城で自刃し、鎮直の次男統弘ら3人の兄弟は日出に帰農して木付氏は滅んでしまった。
 木付氏以降は前田玄以が2年間統治し、次いで杉原長房や早川長政が杵築に入部した。ただし、長政は入部しなかったという説もある。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前には、木付城は細川氏の飛び地となり、筆頭家老松井康之や有吉立行が受け取りの為に入城している。この時、既に情勢が混沌としてきていた為、康之は万が一の時の準備を整えていたが、石田三成挙兵の報をこの城で受け、攻撃を受けている丹後の細川幽斎を救援すべく海を渡ろうとしたものの、船の手配が間に合わず断念せざるを得なかった。そうこうしているうちに、お家再興を悲願とした大友義統による攻撃が始まり、黒田如水の援護を受けた康之は、九州の関ヶ原と呼ばれる石垣原の戦いを今の別府市の中心部で行い、大友軍を打ち破っている。
 戦後、細川氏は豊前と豊後の一部を与えられ、康之は正式に杵築城代となったが、細川氏が熊本に転封となった後は小笠原忠知が入部し、正保2年(1645)には能見松平家が藩主となって維新まで続いた。そして、明治4年の廃藩置県で藩が廃されことによって城も姿を消した。
 城は、海に突き出た台地上にあり、周囲を崖で囲まれた天然の要害海城である。突端に本丸を置き、西に空堀で区画した4郭が台上にあったが、杉原氏の時代に城の機能を北西の平地に移す工事を始め、松平氏の時代に至ってようやく完成した。従って江戸期の城は上の写真にある縄張図のように台下の平地ということになるが、城があった丘陵は防衛上の理由もあって立ち入りが制限されていたらしい。
海城の面影を濃厚に残す杵築城の遠景 現在、台上は城山公園として整備されており、資料館を兼ねた天守閣も建てられていて、その中には主に江戸時代の文物が展示されている。また、公園内を散策すれば空堀等も確認できるが、残念ながらこれといった遺構は少ない。それよりも、道の細い市街地には所々昔の町並みが残っており、観光名所としてはこちらの方が情緒がある。
 尚、杵築という漢字の由来は、6代将軍家宣下賜の朱印状に誤って杵築と書かれていた為、それ以降木付から変えたという。