日出城 所在地 大分県日出町
JR暘谷駅南東500m
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/9
暘谷城とも呼ばれる日出城の鳥瞰図 日出一帯は、古代には大神郷に属し、豊後の大族大神氏のひとつ、宇佐系大神氏が開発領主として支配したところで、大友氏入部後は北条得宗家の支配を経て、その庶族である大友系大神氏や田原氏が地頭となり、その支配が桃山時代まで続いた。
 別府湾を挟んだ向かい側の府内に居した大友氏が、朝鮮の役における不手際で改易となった後、一帯は新たに成立した府内藩領となっていたが、関ヶ原の合戦で東軍に与した功により、慶長6年(1601)に播州姫路から木下延俊が日出に入部して日出藩が成立する。これにより、その居城として日出城も築かれた。ちみなに、延俊は秀吉の正室ねねの甥であったが、秀吉にこれだけ近い親族が東軍に属しているということが、石田三成と徳川家康、もしくは文治派家臣と武断派家臣という対立だけではなく、淀君と北政所という閨房の対立も関ヶ原の合戦に濃厚に作用していたことを物語っている。
 それはさて置き、延俊は日出城を築城するにあたって、室の兄である細川忠興の支援を仰いだ。その為、資材や人員の援助のほか、縄張り自体も忠興自身によるものと伝えられている。石垣は、忠興の家臣で穴生衆穴生理右衛門による穴生積と史料や案内板にあるが、これは織豊系築城の基本である近江の穴太衆による穴太積のことだろう。忠興の自慢のひとつであった小倉城の石垣と同様に、高石垣の優美なものである。
天守台の石垣と城下カレイが生息する別府湾 郭の構成は、別府湾に突き出した丘陵の突端部分を本丸として東南隅に三層の天守を、その他の角に二層の隅櫓を5棟と平櫓1棟を配置し、二ノ丸、三ノ丸に家臣住居や民家を取り入れた惣構えとしていて、小城ながら堅固な構えの城であった。ただ、泰平の世の城であるので、当然ながら実戦経験が無く、どの程度まで防御力があったのかは判断が難しい。城の構造として珍しいのは、家相上の鬼門とされる北東隅を欠いて鬼門除けとしている点だろう。他では鹿児島の鶴丸城などに見られるものだが、日出城の場合はこの場所にあった鬼門櫓にまで入隅を作っている点が特異である。この櫓は現存しているはずだが、残念ながら現在は離れた所に移築されているらしく、現地で調べてみた限りでは、詳しい場所は分からなかった。
 現在は城跡に日出小学校、日出中学校が建ち、建造物も明治7年に取り壊しや払い下げで撤去され、建物は前述の鬼門櫓と平櫓の裏門櫓が移築されて残っているのみらしい。しかし、野面積みの石垣は優美な姿を留め、3代藩主俊長が鋳造させた時鐘も残っている。ちなみに、城の別名である暘谷城の由来は、この俊長が中国の書「淮南子」から採ったもので、「日は暘谷より出でて咸地に没す」から、日出を暘谷に変えたという。
 城の直下に迫る別府湾の海際が整備され、大分市街や高崎山が望める長閑な公園となった今も、この辺りの海中には清水が湧き続けており、その清水で育ったマコガレイは城下カレイと呼ばれる美味な食材で有名だ。江戸時代もこの干物が将軍に献上されるほど珍重され、上級武士しか食せなかったらしい。現在は、料亭で一般市民も味わうこともできるのだが、値段はやはり高く、貴重さは相変わらずである。