戸次川古戦場
所在地  大分県大分市
JR竹中駅北東2km国道10号線沿い
最終訪問日  2001/11/8
国道沿いにポツンとある古戦場碑 九州征伐の前哨戦で、秀吉配下の四国勢と島津軍が激突した古戦場。
 秀吉は島津氏の圧迫を受ける大友宗麟の上洛を受けて九州征伐を決断し、その先発隊として、天正14年(1586)9月に四国勢6千を九州へ上陸させ、次いで中国勢を投入して大友氏に対する叛乱が起こっていた豊前を掌握した。
 11月、島津軍は九州征伐本隊を水際で叩くべく、大友氏累代の本拠であった豊後府内の攻略を目指して北上し、12月には府内の南方にある鶴賀城を約2万で包囲する。しかし、城主利光鑑教・統久父子が奮戦し、鑑教は討死したものの、城兵はよく持ちこたえていた。
 これに対し、秀吉から軍監に任命されていた仙石秀久は、包囲されている鶴ヶ城を救出しようと、長期戦を指示した秀吉の命や諸将の反対を押し切って府内から出陣する。しかし、主力となるべき大友軍のほとんどは府内に留まっていた為、島津軍と相対するには最初から寡兵であった。とは言え、府内南方の重要な支城である鶴ヶ城が落ちると府内防衛が難しくなることも事実で、大友氏の本拠の陥落が他の中小豪族に与える影響は大きいと見られ、判断としては難しいところだろう。
 戸次川に布陣した秀久は、様子を見る為に囲みを解いて退いた島津軍の情報に接すると、12月12日、伏兵を警戒する長宗我部元親や十河存保らの反対を押し切って戸次川の渡河作戦を決行した。これには諸説があり、存保が秀久に同調したという説もある。いずれにしろ、秀久が主導して作戦を決めたのは間違いないようだ。
 対する島津軍は、十面埋伏の陣とも釣野伏とも呼ばれる陽動伏兵戦術を採った為、当然ながら合戦の緒戦は四国勢に有利に見えた。しかし、四国勢が渡河し終えると島津軍の伏兵が襲いかかり、背後に川を背負う四国勢は退路を失って包囲殲滅を受けてしまう。この中、仙石隊は真っ先に壊滅して秀久自身が四国に逃亡するという失態を演じ、残った長宗我部隊と十河隊は協力して戦線を支えたが及ばず、元親の嫡子信親や存保を始めとする多くの武将が討死した。この時、将来を嘱望していた信親の死を聞いた元親は錯乱し、敵軍に突撃して斬り死にしようとしたが、家臣に諌められて辛うじて退却を果たしたという。
 この合戦の結果、大友氏は島津軍によって本拠である府内の大友館を奪われ、宗麟の隠居城であった丹生嶋城下まで兵を進められてしまい、豊後の大部分を掌握されてしまった。しかし、岡城や杵築城などで大友配下の家臣が頑強な抵抗を続けた為、島津軍は秀吉軍本隊襲来前の豊後平定を断念し、日向へと退いている。
 川は現在、大野川と呼ばれて戸次の名はなくなっているが、国道10号線沿いに大きく古戦場の碑が建ち、周辺の字には戸次の名が残っていた。また、討死した信親と存保の墓が近くにひっそりとあり、かつての激戦が忍ばれる。