府内城 所在地 大分県大分市
大分県庁北200m国道197号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2001/11/9
府内城縄張図 名前の通り豊後国府にあり、中世にはこの一帯の領主だった名族大友氏の大友館と呼ばれる居館が南東1kmほどの場所にあった。その頃は大友氏の勢力を反映して、城下は西国一の大きさだったという。
 大友氏は、鎌倉時代より豊後守護を受け継いできた名家で、南北朝時代から室町時代にかけては守護大名として威勢を振るい、名家にありがちな内紛も乗り越え、法名の宗麟として有名な義鎮の代に北九州6ヶ国に覇を唱える大大名へと成長した。しかし、元亀元年(1570)に龍造寺隆信と戦った今山の合戦や、天正6年(1578)に島津氏と戦った耳川の合戦で大敗を喫し、ついに島津軍の北上に耐え切れなくなって中央を制した秀吉に援助を要請する。だが、その前哨戦である天正14年(1586)の戸次川の合戦では、四国勢と連合した宗麟の子義統が島津勢に敗れ、長年の本拠地であったこの辺りも奪われてしまった。翌年の九州征伐後には、なんとか豊後一国を安堵されたが、義鎮の子義統は朝鮮の役で敵前逃亡したとされて領地を取り上げられ、江戸時代は辛うじて名家ということを拠り所に旗本高家衆として生き残ったに過ぎなかった。
 大友氏改易後、早川長政の支配を経て府内に入部したのは石田三成の妹婿であった福原直高で、慶長2年(1597)から築城を開始したが、秀吉死去後、石田三成と徳川家康の対立の煽りで豊後を追われ、早川氏を挟んで竹中重利が慶長7年(1602)に四層の天守を始めとする主要な建物を完成させた。府内城の名称もこの時に定まったらしいが、もともと大友館時代の荷揚げ場を城地としており、荷揚城という別名もある。その竹中氏が改易になった後、日根野吉明が入部したが、こちらも嗣子なく断絶し、万治元年(1658)から大給松平氏が10代を経て維新を迎え、明治5年には城に代わって県庁が置かれた。
 城は、本丸を中心に西丸、東丸に分かれた二ノ丸、山里郭、北丸を主郭として、それぞれを水堀で区画し、西南方向に侍町であった三ノ丸、中堀を経て外郭を配し、その外には惣構えとしての外堀があった。北東方向は直接海に繋がっており、海からの攻撃に備えて帯郭を築き、防御を固めている。
天守台から隅櫓と内堀 現在、城の周辺は開発され、堀も内堀以外は埋め立てられてしまっており、主郭部分のみがなんとか市街地に埋もれながら残っているという状態である。海に繋がっていたという北東方向も埋め立てで市街地となってしまい、海は遠く後退して面影もない。しかし、本丸宗門櫓や二ノ丸人質西隅櫓はなんとか残っており、南の多聞櫓門や隅櫓等復元された建物も多く、壮大な天守台石垣など城としての威容も残しているので、あくまで大々的に宣伝するような観光地ではないが、城好きにはなかなか楽しめる城となっている。