長宗我部信親墓
所在地  大分県大分市
JR竹中駅北東2.1km
最終訪問日  2015/10/18
森鴎外の詩が刻み込まれた信親の碑 四国の雄、長宗我部元親の嫡子で、戸次川の合戦において22歳で討死した信親の墓。
 戸次川の合戦は、島津氏の北上に苦しんだ大友宗麟が中央を制した秀吉に援護を求め、秀吉配下の四国勢と大友軍が連合して天正14年(1586)12月12日に島津氏と戦い、連合軍が大敗した、九州征伐の前哨戦である。
 信親は、元親とその正室との間に生まれた子で、その元親の正室は、織田家重臣明智光秀の配下である斎藤利三の妹とも、斎藤家から養子を迎えていた幕府奉公衆石谷氏の出ともいう。そして、母の縁からか、中央との繋がりを求めた元親によって、信長から信の字をもらい、信親と名付けられた。信長の婚姻政策では、家康の子で娘婿にあたる信康が同様に信の字である一方、妹婿の浅井長政は長の字の一字拝領だったとされる事や、信の字の偏諱を受けた武将がかなり少ない事を考えると、かなりの厚遇だったと考えられる。この信の字は、通字であるが故に家同士の結び付きを表すものではあるのだが、やがて両家は四国の統治を巡って対立してしまい、周囲が敵だらけの時期の信長に誼を通じた元親の先見性は、残念ながら外交戦略の成功には結びつかなかったようだ。
 史料によれば、元親は信親の将来を嘱望し、また、信親は家臣にも優しく、主従共にその成長を楽しみにしていたようだが、それだけに信親の討死を知った元親の落胆振りは激しく、一時は自らも引き返して斬り死にしようとした程であったという。元親は家臣に諌められてなんとか戦場を脱したが、その後の家督継承問題で人が変わったようになったのは、信親を失った事で全てに対する情熱が失せた為ともいわれている。信親討死後の事跡を見ると、後継指名した四男盛親に信親の娘を娶わせるなど、少なくとも信親への偏執があったのは間違いないようだ。
 訪れた墓は、戦場だった川を見下ろす小高い丘にあり、鉄製の鳥居を持つ古めかしい墓石と、森鴎外の詩が彫り込まれている新しく建てられたような碑があった。また、墓の一帯には慰霊碑や地蔵などが並んでおり、慰霊公園の観があるのだが、信親の墓の隣には、元親の四国統一戦で宿敵として矛を交え、合戦では十河存保を始めとする一族が全滅したという十河一族の慰霊碑もある。これらを見ていると、かつての宿敵ながら共に出陣して討死した者同士が並んで祀られているというのは、なんともいえない因縁にも感じられた。