津城 所在地 三重県津市
津市役所東すぐ
区分 平城
最終訪問日 2007/10/25
津城縄張図 現在の津市の中心部は、古くは安濃津といい、城も安濃津城と呼ばれていた。
 最初に津城を築いたのは伊勢長野氏の一族細野藤敦か、その父藤光で、永禄年間(1558-70)のことという。ただ、その頃は恐らく安濃川上流の安濃城の支城だったのだろう。
 中伊勢一帯を支配していた長野氏は、鎌倉時代に伊勢へ入部したとされ、南北朝時代から戦国時代までは北畠氏と和戦を繰り返しながら勢力を維持してきたが、藤敦の従兄弟藤定の代に北畠氏と従属的な和睦をし、養嗣子として北畠具教の次男具藤を迎えていた。しかし、当然と言えば当然だが、かつての宿敵から入嗣して来た人物だけに、藤敦はこの具藤を快く思っていなかったようだ。そんな中、永禄11年(1568)に信長が伊勢へ侵攻すると、北畠氏の先陣として織田家と戦おうとする具藤、具藤とは一線を画しつつ織田家に対抗しようとする藤敦、そして親織田家の立場をとる藤敦の弟分部光嘉らといったように、長野家中は分裂状態に陥いってしまう。当時、藤敦はこの城の本城と思われる安濃城に籠ったようで、織田軍の攻撃に耐えていたが、光嘉が織田家から信長の弟信包を長野当主として迎えることを画策し、更に藤敦が織田家に寝返ったと噂を流した為、藤敦は具藤の追討を受け、やむなく具藤を破って追放した上で織田家に降伏した。
 織田家の中伊勢平定後、長野家当主となった信包は伊勢上野城へ入り、浅井氏攻略や一向一揆との戦いのほか、播磨や伊丹などへも出兵している。信長公記などを見る限り、信長の庶子らとほぼ同等の序列にあったとみられ、信長の信頼は厚かったようだ。また、心服していなかった藤敦や、同じく長野氏の有力一族雲林院氏を追って家中の引き締めを行っており、着実に支配の礎を築いていった武将でもあった。
 信包は、これら家中整備の一環として、津城への本拠移転を図って近世城郭への改修に着手しており、一説に改修は元亀年間(1570-73)初頭からという。ただ、五層天守が完成したのは天正8年(1580)と遅く、実際の改修時期の詳細は不明である。織田家臣によく見られるように、度重なる出兵で工期が長引いたのかもしれない。ともかく、この天守完成をもって信包が入城し、柳山辺りの町屋を移して城下町も形成された。
本丸東側にある模擬三重櫓 天正10年(1582)の本能寺の変後、信長の嫡孫三法師を擁す秀吉が主導権を握ると、信包はこれに従い、翌年の賤ヶ岳の合戦直前の秀吉方による伊勢攻略に参陣するなどしている。しかし、文禄3年(1594)には、秀吉の勘気を受けて改易されてしまう。この原因としては、天正18年(1590)の小田原征伐の際に北条氏政・氏直父子の助命を嘆願した為ともいわれているが、個人的には、氏直が既に許された後で、時間に開きもあることから、主な要因とするにはやや無理があるように思われる。
 信包の改易後は、富田一白が津城を与えられた。そして、その子信高は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に属し、上野城主であった光嘉らとこの城に籠城している。しかし、この頃の津城は惣構えとはいいつつも、それほど大きな規模でなかったと思われる上、2千に満たない兵力では西軍の3万には歯が立たず、僅か3日で降伏開城した。また、この時の合戦では、寡兵での戦いを象徴するように、信高の室までが華麗な甲冑を身にまとって信高の危機を救ったという話が伝わっている。
 戦後、信高はこの奮戦が認められて加増されたが、攻撃を受けた際に天守閣を始めとする建物と城下町の大部分は焼失しており、復興はなかなか進まなかったらしい。そして、信高が慶長13年(1608)に加増転封した後、代わって藤堂高虎が入部し、この高虎によって慶長16年(1611)頃から大規模な平城へと改修されることとなる。
 高虎は、伊賀上野城を戦時の城、津城を平時の居城と考えたようで、本丸を北と東へ拡げて得意の高石垣を築き、主郭部分に2棟の三重櫓を始めとした重層櫓や外郭の12の櫓などを新たに設け、外堀を廻らせるなど、近世城としての体裁を整え、また、城下に伊勢街道を通して経済物流の中心となるよう配慮した。ただ、藤堂氏の手では天守は建てられなかったようだ。天守の有無は不明だが、あったとしても富田氏時代の再興で、焼失したか何かで江戸時代中期には無かったことがはっきりしている。
 その後、藤堂家は22万石から32万石へと加増され、伊賀上野に城代、名張などに支藩を置き、そのまま移動もなく維新を迎えた。明治4年の廃藩置県での廃城後、建物などは明治の中頃までには解体され、明治の終わりには外堀も埋め立てられたという。
 現在の城は、東ノ丸と二ノ丸が市街化しており、本丸と西ノ丸、内堀だけが残っている。ただ、この公園化されて残った部分もかなり形を変えてしまっている状態で、城跡としては若干寂しい。往時は、本丸の左右に本丸より小さな西ノ丸と東ノ丸を配し、幅の広い内堀を介して二ノ丸が囲むという典型的な輪郭式の構造で、外堀には岩田川から水を導き、岩田川と安濃川の間に水路を掘って東側は三重の堀となっていた。
本丸にある藤堂高虎の騎馬像 城跡の公園は、西ノ丸が日本庭園、本丸は噴水もある西洋風の公園となっており、さらにその一角に藤堂高虎の騎馬像があって、ちょっと統一感がない。更に、本丸東側の石垣に三重の櫓が建てられているが、これは模擬で、往時にはここに三重櫓は無かった。こんな立派な櫓を造るなら、戌亥三重櫓か丑寅三重櫓を復元して建てればいいのにと個人的には思うが、何らか事情があったのだろう。とにかく、上記以外にも天守台への登り口が無くなっていたりするなど、遺構が比較的残っている割に何か物足りない印象を受けるので、少しもったいない城だ。