峯城 所在地 三重県亀山市
亀山市役所北東4.6km
区分 山城
最終訪問日 2007/10/25
峯城縄張図 築城は、関盛政の五男政実によると伝えられ、築城年代は南朝年号の正平年間(1346-70)、または北朝年号の貞治6年(1367)という。
 政実は、この城を築いて峯を称し、峯氏の始祖となるのだが、そのきっかけは、父盛政が南朝方の北畠氏に従って北朝方の伊勢守護仁木義長の討伐に功を挙げ、鈴鹿郡と河曲郡を恩賞として得たことによる。盛政は得た土地を子供5人に分知し、これらが神戸氏や峯氏といった関の五家と呼ばれる有力庶家となった。
 この後、室町時代から戦国時代にかけて峯氏は宗家に従っていたようだが、勢力を伸ばして宗家と対立した神戸氏ほど史料に多く出てこず、盛定などの名が散見される程度で、動向はあまり鮮明ではない。伊勢峯軍記には安成、安政、広政といった名が見えることは見えるのだが、これにも他の史料と系図が全く合わないという問題がある。
 永禄10年(1567)と翌年の信長による伊勢侵攻では、峯氏は神戸氏など関氏一族と共に信長に臣従し、神戸氏の養子となった信長の三男信孝の与力となった。その後、天正2年(1574)の伊勢長島攻めで城主であった八郎次郎盛祐が討死し、弟与八郎盛治が幼少だった為、峯城は岡本良勝に与えられ、事実上、峯氏は滅んでいる。
 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉が事実上の後継者の地位を得、織田家の筆頭家老であった柴田勝家や秀吉を毛嫌いする佐々成政らと対立した。そのような情勢の中、信長の子である信孝や信雄の領地であった伊勢は、これらの争いに否応無く巻き込まれることになる。
 同年6月の清洲会議の後、秀吉と勝家は互いに外交戦で各地の勢力を取り込み、11月の一時和睦を挟んで冬には岐阜城にあった信孝が反秀吉の兵を挙げた。秀吉はこれを素早く降伏させたが、年明けには今度は滝川一益が挙兵し、秀吉方に寝返っていた良勝を追って周辺の城と共にこの峯城も占領する。一方の秀吉は、勝家が雪で出陣できない間に決着をつけるべく伊勢へ出陣し、この城も秀吉の甥三好秀次らの部隊が包囲したが、一益の甥である城将滝川益重の奮戦で40日以上も落ちず、兵糧攻めでようやく降伏開城させた。
 その後、峰城は織田信雄の属城となり、佐久間信盛の子正勝(信栄)が城主となったが、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦の際に秀吉方に攻撃されて落城し、正勝は尾張に敗走した。落城後、城は廃城になったとも良勝が復帰したともいわれるが、良勝が現在の亀山城を築いた天正18年(1590)以降、廃城となっていたのは間違いない。
 城は、安楽川と八島川の合流点に向って突き出した丘陵上にあり、伝承では天守も備えていたという。しかし、実際に訪れてみると、ひどく藪化していて散策は困難だった。遠くからも見える案内板から、山裾に沿って奥へ進んだところに城址を示す杭があり、そこから城へ登ったのだが、天守台西側の帯郭らしき細長い平坦地や、本丸南側の郭は竹薮だったので散策できたものの、本丸と思われる部分は杉の幼木がちょうど人の身長程度の高さに成長しており、常に中腰での移動を余儀なくされる状態で、とてもじゃないが全体的に郭を捉えることができなかった。また、天守台には石垣もあるらしいのだが、そのような状況だったので、石垣を探し当てることもできなかった。
城の入口にある城址碑 城のすぐ下の農家の方から聞いた話によると、城の西南側は堀があるわけでもなく、防御力に乏しかった為、城主が戦時の際にマムシを放ったという伝承が伝わっているらしい。城に行くという話をした時に、これで地面を叩けばマムシが逃げるからと農家の方が棒を貸してくれたが、実際に今でも生息してるということを考えると、これは実話だったのだろう。毒蛇を放ったというのは中世の城跡ではちょくちょく聞く伝承だが、それをリアルな話として実感したのは初めてで、山吹城で猿の大群に出くわした時と同じぐらい危険を感じた。