松坂城 所在地 三重県松阪市
松阪市役所南西280m
区分 平山城
最終訪問日 2007/10/25
松坂城縄張図 近江国日野から松ヶ島城へと入部した蒲生氏郷が、新たな統治の拠点として築城した城。
 現在は松阪の字が使われているが、当初は松坂と称しており、松阪と表記されるようになったのは明治の中頃からである。坂の字は主君秀吉の大坂城からもらったといわれるが、坂から阪への変遷も同じで大阪を基にしており、両者は名前で不思議な縁があるようだ。
 氏郷の松ヶ島城入城は天正12年(1584)であったが、松ヶ島城が海に面して城や城下町が拡げにくいことから、氏郷はすぐに領内で新しい城地の選定を進め、四五百森と呼ばれる独立丘陵への新城築城を決めた。天正16年(1588)に始まった築城工事は急ピッチで進められ、廃城にする松ヶ島城や周辺寺社から資材を掻き集めて同年中には完成したという。また、松ヶ島城下の町民を移住させると同時に、故郷日野や伊勢の商人も招き寄せて城下町の建設を進めたことにより、後に松坂商人を生み出す城下町の基礎が形作られた。
 このように、重商的性格の城下町を持つ城が完成したのだが、築城者である氏郷が在城したのは僅か2年で、同18年(1590)の秀吉による奥州仕置後、東北の楔という役割を持って会津へ加増転封となっている。代わって松坂城の城主となったのは、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で今川義元に一番槍を付けた服部一忠だったが、一忠は文禄4年(1595)の豊臣秀次の粛清に連座して失脚し、同年以降は古田重勝が城主となった。重勝は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍に味方して松坂城を守備し、西軍鍋島勝茂らの攻撃を和戦交えて持ちこたえ、戦後に約2万石の加増を得ている。
 江戸時代に入ってもしばらくは古田家が城主を務めていたが、重勝の死後に跡を継いだ重治が元和5年(1619)に石見浜田へ転封となり、松坂藩は消滅した。そして、松坂藩領は紀州藩が引き継ぎ、紀州藩の支配拠点となった松坂城には後に城代が置かれるようになる。しかし、本城では無い為に、正保元年(1644)に暴風で倒壊した天守が再建されることはなく、また、城内に紀州藩陣屋や城代役所などが置かれたものの、その他の建物は放置された状態であった為、倒壊したものも多かったという。
重層的に石垣が構築されている表門付近 維新後、城は廃城となり、荒れていた城内の建物類が相次いで撤去され、紀州藩陣屋も明治10年に失火で焼失した為、城に建物は残っていない。しかし、氏郷が穴太衆を動員して築いた野面積の石垣は見事としか言いようがなく、城としての威容を未だに保っている。
 城の構造は、比高数10mの独立丘陵の中央やや北東寄りに三層の天守を置き、その東側に本丸、天守の西側に希代丸、本丸南側に二ノ丸を配し、その他にも隠居丸や出丸があった。これらの主郭部分とは別に、希代丸の南側にはかつての四五百森のままの山が広がっていたが、ここには八幡社があり、城の守護として人の手を入れなかったらしい。また、丘陵の麓には、主郭部と八幡社全体を囲む三ノ丸が構えられ、北東側に大手、南東側に搦手の門を開いていた。そして、この三ノ丸の外周には土居と堀が構築され、堀は一部を除いて水堀で、幅は20mから30mもあったという。
 現在の城跡は、公共施設や学校のある三ノ丸や堀の部分が市街化している為、丘陵部だけが公園として残っているが、公園内には重層的に築かれた石垣があり、城跡としては十分満足できる迫力がある。特に表門付近は、平山城らしい高低差のある高石垣が眼前にあり、道を登って行く際に次々と石垣が現れ、抜群の雰囲気だ。一方、二ノ丸は近世城らしくひたすら大きな空間が広がっており、表門付近の印象とは随分と違う。本丸へと目を移すと、この部分は上下2段に分かれており、上段には天守台や敵見櫓、金の間櫓の跡がある。これらは台状の石垣で繋がれており、幅が十分あることから、多聞櫓で繋がれていたのだろうか。また、本丸下段も太鼓櫓から月見櫓、遠見櫓が同じように繋がっており、この本丸だけで天守を含め8つもの櫓跡があった。
敵見櫓跡と天守台 訪れた時は残念ながら曇天だったのだが、二ノ丸や本丸から眺める松阪市街の景色はなかなかもので、天気が良ければかなりの眺望だったに違いない。そういう意味では非常に惜しかった。本丸北側の希代丸には整然と梅林が植えられているが、これはもともと籠城時の食料用として植えられていたものに由来するといい、桜と同様に名所となっているらしい。今は市街地の中の憩いの場となっている城跡だが、こんな小さなところに僅かながら戦国時代の名残があり、妙に関心した。