松ヶ島城 所在地 三重県松阪市
近鉄松ヶ崎駅北東1.6km
区分 平城
最終訪問日 2007/10/25
天守山と呼ばれている天守台 松ヶ島城のあったこの伊勢湾沿いの場所は、古くは保曽久美や細首、細汲と書き、伊勢参宮の古道が通る陸海の交通の要衝であった。
 城が歴史に最初に登場するのは、松ヶ島城の名ではなく前身の細首城もしくは細頸城としてで、信長が北伊勢に侵攻した永禄10年(1567)頃に北畠領内の支城網のひとつとして築かれたといい、城主として日置大膳亮の名が見える。築城は大膳亮自身がしたのかどうかは不明だが、北畠具教の築城命令があったのは間違いないだろう。だが、城主となった大膳亮は、同12年(1569)の信長の侵攻に対して池田恒興と交戦したものの、形勢不利と見るや城に火を放って具教の籠城する大河内城へ撤退しており、城が有効に機能したとは言い難い。
 北畠氏が大河内城での2ヶ月の籠城を経て、信長の子信雄を養嗣子に迎えるという降伏に近い形で信長と和睦した後、大膳亮は信雄に仕え、後には北畠一族掃討の実行者にもなっているが、両家和睦後に細首城をそのまま安堵されたかどうかはよく判らない。史料に出てこないのでなんとも言えないが、焼失した為にそのまま放置されて空城になっていた可能性も十分考えられるだろう。
 次に城が登場するのは、北畠氏の養子となった信雄の城としてである。信雄は、入嗣後しばらくすると田丸城を改修して居城としたが、天正8年(1580)の田丸城焼失を機に細首城を五層の天守を備える近世的な城へ改修し、松ヶ島城と名付けて本拠にした。
 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死した後、信雄は弔い合戦の主将たる資格を持ちながら山崎の合戦にすら参加せず、清洲会議では後継者に推挙されることさえ無かったが、信長の次男という立場を尊重されたようで、織田家の根拠地とも言うべき尾張を与えられている。これにより、信雄は清洲城へと移った為、松ヶ島城には伊勢の支配拠点として機能するよう津川義冬、次いで滝川雄利といった重臣が置かれた。
 清洲会議の後、織田家臣団は山崎の合戦で光秀を討った秀吉と、筆頭家老であった柴田勝家の派閥に分かれていくが、信雄は秀吉方に与して岐阜城にあった弟信孝を滅ぼしている。しかし、秀吉が巨大な勢力となっていくのに危機感を覚えた信雄は秀吉と対立するようになり、やがて秀吉から懐柔を受けたという流言を信じて義冬を含む家老3人を内通の疑いで謀殺した。これにより、秀吉は信雄討伐の大義名分を得、いよいよ危険を感じた信雄は家康や周辺大名に協力を依頼し、小牧長久手の合戦へと繋がっていく。
 このような情勢の中、松ヶ島城主は滝川雄利が務めていたが、天正12年(1584)に小牧長久手の合戦が開始されると、秀吉の別働隊によって伊勢の信雄領はことごとく攻略され、松ヶ島城もそれらの城と共に落城した。そして、合戦終結後には松ヶ島城に秀吉方の蒲生氏郷が12万石で入部したのだが、城地が手狭であったことなどから天正16年(1588)に南方3kmの四五百森へ新たに松坂城を築城し、この時に城下の商人や町人、寺社も強制的に移動させた為、松ヶ島城は一夜にして寒村に戻ったという。
天守台から周辺の田園地帯 なかなか場所が分からず迷いながら城跡に辿り着くと、周囲は全くの田園風景で、天守山と呼ばれる天守台以外は遺構らしいは遺構は無かった。案内板には、この天守山の周囲から親秀吉の城の証である金箔の瓦の破片が出土しているほか、古地図には城内外を表す地名が載っているとあったが、現地では確認しようもなく、また、偶然通りがかった老夫婦の方に話を聞いてみても、やはり周辺にある城の遺構はこの天守山ただひとつらしい。それ以外では、周囲の用水路がもしかしたら堀の跡を利用したものかもしれないと思わせる程度である。