霧山城 所在地 三重県津市
津市多気出張所北西1.2km
区分 山城
最終訪問日 2007/10/24
本丸跡の台上にある城址碑 戦国大名化した三国司家のひとつに数えられる北畠家の居館多気御所の詰城にあたり、公家出身という由緒ある家柄であった為、尊称して霧山御所とも呼ばれていた。
 北畠氏の出自は源氏であるが、武家の棟梁となった清和源氏ではなく、公家としての家格が高かった村上源氏である。村上源氏は、源平争乱期から鎌倉初期にかけての当主である通親が、平清盛や後白河法皇、源頼朝といった時の権力者に相次いで接近し、絶大な影響力を誇った。そして、その嫡流は久我家となったが、通親の子通方が分家の中院家を興し、更に通方の子雅家が洛北の北畠に住んで地名を名乗ったのが北畠氏の最初である。
 雅家の後、師親、師重と続いて徐々に朝廷内での地位を固め、4代目親房が出るに至って後醍醐天皇から決定的なほどの厚い信頼を得、北畠家で初めて大納言の地位に昇り、源氏長者を許されるなどしているが、鎌倉幕府崩壊までの10年の間に起こった正中の変や元弘の乱などの討幕計画には参加していなかったようだ。だが、元弘3年(1333)から始まった建武政権下では重要な役目を担い、南北朝時代には東北から畿内、関東まで各地の戦場を戦い抜き、言わば南朝方の切り札的存在となった。
 伊勢北畠氏の祖となるのは親房の三男顕能で、建武2年(1335)かその翌年に親房と共に伊勢へ下向したのがきっかけである。ただ、史料には顕能が一志郡多気に城を築いたとあるが、これは霧山城の事ではないらしい。伊勢入部後の顕能は、父親房、兄顕信と共に南朝勢力の扶養に努め、長兄顕家の死によって顕信が陸奥へ移った後も伊勢に残り、建武2年か顕信が出立した延元元年(1338)に伊勢国司に補任された。霧山城の築城は興国3年(1342)かその翌年とされるが、この年には重要拠点だった田丸城が落ちており、早急に防備を固める必要が生じた結果の築城なのだろう。以降、顕能は畿内や東海に睨みを利かせる南朝方の重用人物となり、子孫は南伊勢の南朝方有力領主となって戦い続け、南北朝合一後にも、当主の満雅が南朝系であった小倉宮を庇護して幕府に対し叛乱するなど、南朝方としての筋を通し続けた。
矢倉のあった郭と奥の本丸との間の堀切 正長元年(1429.1)の満雅の討死後、北畠家は幕府と和睦し、改めて伊勢国司の地位を与えられ、南伊勢の有力領主として在り続けることに成功している。そして、戦国時代の晴具・具教父子の頃に、長野氏などの国人や伊勢神宮と争いながら伊勢と国境を接する伊賀、大和、紀伊にも進出して支配地を拡げ、全盛期を迎えた。しかし、永禄年間(1558-70)後期には隣国で勃興した信長が伊勢へと侵攻するようになり、信長はまず、北伊勢の諸豪族を降伏させた上で、永禄12年(1569)には北畠領へと侵入して来る。具教はこれに対抗し、居城を大河内城へ移して防戦に努めたが、弟木造具政の離脱などもあって苦戦し、籠城戦の末、翌元亀元年(1570)に信長の次男信雄を北畠家に迎えるという条件で降伏的な和睦を結んだ。これにより、独立大名としての北畠氏は実質的に終焉を迎えた。
 霧山城は、初代顕能による築城だが、前述のように城跡の案内板には興国3年(1342)、比津峠側の登山口には同4年と、2つの年が書かれており、明確な築城年は判っていないようだ。ただ、南朝方の根拠地吉野と皇室の祖廟伊勢神宮を結ぶ街道沿いにあり、当時の状況では非常に重要な位置にあったというのは間違いない。南北朝合一後はその地理的重要性が薄れ、満雅が阿坂城、具教が大河内城に籠ったように、平野部に出て迎撃というのが戦略上、採り易い作戦だったようだが、平時は本拠多気御所の詰城として在り続けた。信長との戦いの際も、一門衆である北畠政成が城代として籠城し、織田軍を撃退していることから、北畠家の象徴的な存在意義があったのかもしれない。
 その後の霧山城は、具教が織田家に臣従した後に三瀬へ移った為、政成が城代として在城し続けたが、天正4年(1576)に具教を始めとする北畠一門が謀殺された三瀬の変の際に織田軍に攻められて再び籠城し、落城して自害している。また、この落城によって霧山城は廃城となり、230年以上に渡る北畠氏の本拠としての歴史を終えた。
 城へは、最短距離の比津峠側から登ったが、この登山道はかなり急峻で厳しい。この険しい地形が示すように城は典型的な中世山城で、主郭部分は3郭で構成されており、本丸を中央にして矢倉のあった郭と米蔵のあった郭を両脇に備えている。それ以外では、主郭から少し離れて鐘撞堂のあった出郭があるが、全体としては必要最小限の構成となっており、詰城らしい構造だ。また、それぞれの郭は土塁や堀切、食い違い虎口で区画されているが、それらが良好な状態で残っており、散策しがいがある。
矢倉跡からの景色 訪れた時は、標高が高い為か城跡に整備の手が行き届いていた為か、城跡を散策していて楽しい上に清々しかった。遺構は、本丸の一部の盛り上がっていた部分だけは、城址碑の為の盛り土なのか櫓台などの遺構だったのかよく判断できなかったが、それ以外は非常に良好に残っていて、かなり良い雰囲気である。また、この日は天気も良く景色が抜群で、夕暮れが感動的なほどだった。城にあまり興味が無くても登った満足感が得られる城と思われ、城好きでない人にも勧められる城である。