神戸城 所在地 三重県鈴鹿市
鈴鹿市役所南西700m神戸高校西すぐ
区分 平城
最終訪問日 2007/10/25
神戸城縄張図 神戸はコウベではなくカンベと読む。他に同じ漢字でゴウドなどと呼ぶ場所もあるが、いずれも神社の領する土地や神社に仕える神人の住む土地であったことからの名である。この神戸城周辺は、南の阿自賀神社関連の土地であったのか、それとも伊勢国内ということで伊勢神宮の神領であったのかと思われるが、その辺りは詳しく分からなかった。
 この地に城が築かれたのは、天文年間(1532-55)や弘治年間(1555-58)という説があり、現地案内板には1550年代とある。築城者としては、神戸氏当主の利盛や具盛の名が見られ、天文年間の初期から中期であれば具盛ということになるが、最もよく調べているであろう地元の教育委員会作成の案内板には利盛とあった。また、具盛という諱は第4代と第7代の当主が使っているが、7代目のほうは友盛とも書き、混同を避けて通常はこちらが使われる。
 神戸氏は、亀山付近を本拠としていた桓武平氏流関氏の庶流で、南北朝時代の関盛政の時、長子盛澄が神戸城からやや南西の沢城に住み、神戸郷から地名を名乗ったのが最初という。以降は関氏の一門衆として活動していたが、3代為盛の時に嗣子が無く、室の実家である北畠氏から養子を入れた。これが前述の具盛である。具盛は養子という身ながら家中をよく治め、神戸氏の勢力拡大に尽力し、子長盛の代には宗家である関氏に匹敵する勢力を持つようになった。しかし、関氏側から見れば、強すぎる庶家が惣領の邪魔になるのは致し方ないところで、長盛は関氏と対立して戦い、具盛以来血縁となった北畠氏と誼を通じている。
 長盛の跡は子利盛が継ぎ、利盛が早世した後は弟友盛が家を継承して長野氏などと争いながら神戸氏は伊勢の有力国人で在り続けた。しかし、永禄10年(1567)には存亡の危機に立たされてしまう。時代は風雲急を告げ、尾張に勃興した信長が伊勢へ侵攻してきたのである。神戸領内の諸城を次々と抜きつつ南下する織田軍に対し、神戸方は高岡城で山路弾正が支え、美濃での不穏な情勢に対応すべく織田軍が撤退するまで持ちこたえた。しかし、翌年早々に織田軍が再び伊勢へ侵入すると、友盛は勝つことの困難さを悟り、織田家と和睦して信長の三男である三七丸、つまり後の信孝を養子に迎え、織田傘下に入ることとなる。
 その後、信孝と不和であった友盛は、元亀2年(1571)正月、義兄蒲生賢秀がいる日野城で信長の命によって幽閉され、神戸城は完全に織田家の城となり、天正8年(1580)には信孝が大改修を施して五層の天守も築かれた。そして、2年後に本能寺の変が起こると、清洲会議を経て信孝は岐阜へ移り、信孝の異父兄という小島兵部少輔が城主となっている。信孝が後継者争いで組んだ柴田勝家や滝川一益が同11年(1583)に秀吉に敗れると、同年に信孝は兄信雄に岐阜城を攻められて降伏し、小島氏の神戸城も信雄の家臣林正武の攻撃で開城降伏した。開城後、そのまま神戸城主となった正武は、子の十蔵に信孝の室を娶らせて父子共に神戸姓を名乗ったが、今度は秀吉と信雄が不和となり、翌年に秀吉の圧迫を受けて城から逃亡、城は秀吉の家臣生駒親正が領し、秀吉と信雄が和睦すると、その交渉に奔走した信雄の家臣滝川雄利が同13年(1585)に封じられている。この後、小田原征伐が終結した天正18年(1590)から4年間は水野忠重に代わったが、この頃に雄利は信雄の家臣から完全に離れたようで、忠重が神戸から三河国刈谷に戻ると、再び雄利が神戸を領した。また、これと同時期の文禄4年(1595)に神戸城の天守は桑名城に移され、神戸櫓となっている。
 その後、雄利は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となり、代わって入った一柳直盛が寛永13年(1636)まで領し、直盛転封後の15年間の天領期間には城の建物の多くが破却された。だが、慶安4年(1651)には石川総長の入部で神戸藩が再興されて3代続き、天保17年(1732)からは本多氏が維新まで7代136年間領している。
神戸城の城址碑と天守台 城の縄張は、方形の本丸の北から東にかけて二ノ丸を置き、その主郭部分の東西南の3方向を三ノ丸や馬場が囲うというシンプルなもので、近世に大規模な改修の手が入っていない為、信孝時代からあまり変わっていない縄張なのだろう。現在は天守台を中心に公園化されているものの、明治8年の破却後、二ノ丸跡付近が神戸高校の敷地に使われるなどしており、天守台と申し訳程度に残っている内堀以外には城の痕跡はないのだが、公園は閑静な住宅地の中にあるので、古城の静かな趣というのは保たれている。また、公園の駐車場がきちんと整備されているので、車などの止め場所に困るということが無いのも地味に便利だ。