阿坂城 所在地 三重県松阪市
伊勢道松阪I.C.北西2.2km
区分 山城
最終訪問日 2007/10/25
阿坂城周辺図 白米流しの伝説から白米城とも呼ばれるが、現地案内板によると、大きく南北2つある郭群のうち、北の郭群を椎ノ木城、南の郭群を白米城とも呼ぶらしい。また、これとは別に北東の峰の先に高城、南東の峰の先に枳(からたち)城という出城を持っており、これらを合わせて国の史跡に指定されている。
 城が築城されたのはいつ頃かは不明だが、一説には北畠顕能が国司として伊勢に入部した建武2年(1335)に築城されたという。ただし、支城としての築城で、顕能は多気の御所を本城としていた。歴史上に阿坂城の名が出てくるのは南北朝時代の文和元年(1352)で、細川元氏や土岐頼康が北朝方として伊勢に侵入し、阿坂城を攻撃したが、南朝方であった顕能がこれを撃退したということが見える。
 南北朝合一後の応永22年(1415)には、顕能の孫満雅がこの城に籠城して幕府軍と対峙しているが、この戦いは、南朝系と北朝系の天皇が交互に即位するという両統迭立の約束が反故にされた為、満雅が叛乱を起こしたという戦いであった。この合戦で阿坂城は落城するのだが、水の手を絶って包囲する幕府軍に対し、見えるように米で馬を洗い、さも城内に水が豊富にあるよう見せかけて欺き、撃退したという逸話も残っており、これが白米城の名の由来となっている。この叛乱は、結局は数に勝る幕府軍が主要拠点を陥落させるのだが、関東に不安を抱える幕府は完全なる討伐を目指さずに満雅と和睦し、北畠家の滅亡という事態は免れた。しかし、正長元年(1428)の称光天皇崩御に伴う北朝方皇統の嫡流断絶後も南朝方皇統に皇位が譲られなかった為、満雅は南朝系の小倉宮を庇護して再び叛乱し、同年末に討死している。
南郭の白米城の城址碑と遠く北郭の椎ノ木城を望む 満雅の討死後、北畠氏は再び幕府と和解し、代を重ねて次第に勢力を拡げていった。そして晴具の頃に全盛期を迎えるのだが、次に阿坂城が歴史上に登場するのは、これより少し後の信長による伊勢侵攻時である。
 永禄11年(1568)までに北伊勢から中伊勢までを制圧していた信長は、いよいよ翌12年(1569)から伊勢国司北畠氏の攻略に取り掛かった。当然ながら阿坂城も攻略対象となり、降伏勧告が行われたが、北畠家累代の重臣である城主大宮入道含忍斎がこれを拒否した為、織田家の部将滝川一益や木下藤吉郎時代の秀吉によって城は攻撃を受けることとなる。しかし、城兵の抵抗は強く、秀吉も含忍斎の子景連の矢で生涯でただ1度の戦傷を負うほど苦戦したという。ところが、大宮氏の家臣が寝返って城の火薬に水をかけるなどした為、勢いに乗った織田軍が一気に攻略し、城は落城した。一方、武功夜話によれば、木造兵庫介が阿坂城主とあり、出家していた兵庫介の子の説得によって城が開城されたとある。しかし、兵庫介とは具政のことであり、早くから織田方に通じていた具政が阿坂城の城主とは少し考えにくい。
 落城後、城には一益の手勢が入城したというが、北畠氏の前線の城という役目はもう無く、すぐに使われなくなって廃城になったようだ。落城した年の内か、遅くとも北畠氏が完全に織田家に降伏した翌元亀元年(1570)のことだろう。
北郭の椎ノ木城の台状地形を横から 城への登山道は幾つかあるようで、麓の浄眼寺の脇から登る道が最も整備されているようだが、勾配はなかなかきつい。登山道沿いには、人工的にえぐられたような地形が度々現れるが、竪堀や堀切のような城の防御機構なのか、それとも整備される前の旧道なのか、判断がつかなかった。30分ほど登ると、ようやく北郭の椎ノ木城に着くが、いきなり10m近く盛り上がっている郭の下に出るので、巨大な土の壁が見えて印象的だ。また、この部分には2筋の土塁があり、食い違いの虎口を形成している。この椎ノ木城は、北畠氏の本拠であった霧山城とよく似た構造で、見事な切岸の上に同じ高さで恐らく3つに区画された郭があったと思われ、南端の郭からは南郭である白米城がよく見えた。この白米城は椎ノ木城とは別峰で、一旦谷に下りて峰を登った先にあり、こちらもかなりの高さを持つ台状の郭である。ただし、椎ノ木城と違い、こちらは城址碑のある郭の東の下に次の郭があり、一般的な山城のような梯郭式となっていた。
 訪れたのは平日で、しかも曇天という微妙な天候だったが、山を下りる際に4人組の中高年の方のグループと15人ぐらいの集団とすれ違ったので、登山の為の山としてはそこそこ人気があるようだ。城としては歴史上それほど有名な城ではないが、登山道の整備のされ方からしても、体力的にはきついが安心して登れる城である。