魚住城 所在地 兵庫県明石市
山陽電鉄西江井ヶ島駅600m
区分 平山城
最終訪問日 2002/10/13
住宅地に僅かに碑だけが残る 室町時代から戦国時代にかけて、東播磨に勢力を持っていた豪族魚住氏の居城。
 魚住氏は、御着を本拠としていた赤松支族小寺氏の支流とされ、魚住城としては、ここから少し西にある中尾という地に長範が居館を構えたのが最初という。
 南北朝時代の文和年間(1352-56)に、赤松氏の配下として長範が武功を立てたことが史料に見え、山名氏が没落した明徳の乱、赤松家当主満祐が将軍義教を討って討伐された嘉吉の乱、そして応仁の乱と、一貫して赤松氏の下知に従っている。
 だが、赤松氏の勢力が後退した戦国時代には、当主頼治とその子吉治は別所氏の影響下にあり、三木合戦でも別所氏に味方した。そして合戦に備える為、西南方向は海に面し、東は赤根川を堀として使えるこの台地へ天正6年(1578)に新たに築城し、毛利氏からの援助物資をこの地で陸揚げして三木城まで運んだという。三木城を囲む秀吉軍から、城内に活きの良い明石鯛が見えたという逸話も残っているが、結局この魚住からの補給ルートも潰され、干殺しとまでいわれた壮絶な籠城戦を経て別所氏は三木城を開城し、滅んだ。
 魚住城も、別所氏が滅んだ天正8年(1580)1月に放棄されたとも落城したとも伝わり、魚住氏のその後の消息はわからなくなるが、食料補給の指揮を執った魚住氏の家臣卜部安知は、実際に作業に従事した住民多数と共に秀吉に処刑されたといわれている。だが、安知の子は難を逃れてしばらく身を隠し、豊臣氏が滅んで徳川氏の世となってからこの地に戻り、造り酒屋を営んだ。それが今も残る江井ヶ嶋酒造で、魚住城以外では戦国時代と現在を繋いでいる唯一のものといえるのかもしれない。
 現在、城跡は住宅地として開発されて遺構は全く残っていないが、跡地とされる場所は海からほど近い場所にある小高い丘で、この地形を利用しつつ土塁を少し掻き揚げただけの小城だったかと思われる。
 魚住城の存在を知ったのは小学校3年の時だったが、バイクを手に入れてから、小学校の時の記憶を辿りつつ訪れたことがあった。その時は城跡の痕跡を残しているとはいえなかったものの、開発されていない草原のような茫漠とした場所だったように記憶しているが、10年ほど経って再び訪れてみると、全くの宅地となってしまっているのに驚いた。史跡の案内表示も建て替えられ、真新しい小さな公園の隅に、これまた真新しい黒い文字で記された白い案内板がやたら印象に残った。