龍野古城 所在地 兵庫県たつの市
たつの市役所北1.6km
区分 平山城
最終訪問日 2005/10/27
鶏籠山山頂の本丸跡 近世龍野藩の居城龍野城の後背にある鶏籠山にあり、鶏籠山城とも呼ばれる。
 播磨守護であった赤松氏は、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で没落していたが、家臣の活躍などもあって政則の時に再興された。その政則の庶子村秀が、最初の龍野城主である。築城は明応8年(1499)だが、村秀は宗家を継いだ義村よりも年下のはずで、しかも義村自体がその頃はまだ幼少であったようなので、重臣宇野政秀が後見して築城したらしい。
 村秀の子政秀は武勇に秀で、衰退した宗家当主で従兄弟でも舅でもある晴政を西播磨の守護代として支え、宗家家臣筋の浦上氏や小寺氏と争って晴政の復権に尽力し、晴政が子の義祐に追われると義祐とも争った。永禄8年(1565)に晴政が死去すると、義祐と和解したが、本家を凌ぐほどの勢いを見せ、上洛した将軍義昭や信長にも誼を通じている。そして、浦上氏や小寺氏と争ったときの援軍要請が、信長による永禄12年(1569)の播磨出兵へ繋がるのだが、肝心の政秀が小寺氏を攻めた時に黒田官兵衛孝高の奇襲によって大敗してしまい、翌年に暗殺されたとも浦上氏にこの城を包囲されて自刃したともいう。
 その後、城は政秀の子と思われる広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577)には秀吉に抗わず開城降伏し、後に但馬竹田城主に転じた。広秀が退去したこの城には石川光元が入り、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政へ変わるなど入れ替わりが激しく、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、池田輝政の城代として荒尾但馬が入っている。池田氏の移封後、本多政朝、小笠原長次、岡部宣勝、京極高知と続いたが、高知が万治元年(1658)に移封となると、天領となって城は破却された。
本丸北東隅の石垣 城は、中世的な山城から出発し、争乱が治まって政庁的な機能が重要視されるに従い、麓に城の機能が移されたらしい。その時期は諸説あってはっきりしないが、現地の案内板には、慶長3年(1598)頃に山上の城を破却して麓に築城したとある。その後、京極氏の転封で破却されたのは前述の通りだが、寛文12年(1672)に脇坂安政が入封した時に、現在残っている居館形式の龍野城が築かれ、明治まで続いた。つまり、中世山城、近世平山城、そして陣屋に近い居館形式の3つの城が龍野に営まれたということになる。
 城の構造は、山頂に本丸を置き、そのすぐ脇に守護神である八幡宮を祀り、やや下って南東に伸びる尾根筋を削平して二ノ丸がある。二ノ丸から南麓に向かっては、幾重にも郭が設けられ、土塁や空堀も確認でき、石垣の残骸かと思われるこぶし大ぐらいの石が多く見られる。また、本丸の石垣は比較的よく残っているので、野面積と判るが、壊された箇所も多く、麓の築城にあたって資材が持ち出されたのだろう。
 城への登山道はよく手が入れられているようだが、これは野生動物と棲み分ける為かもしれない。頂上の本丸からは、揖保川と、まだ紅葉せずに青さが薄れただけの山々が木々の間に見え、晩秋の陽光に映えて清々しかった。