庄山城 所在地 兵庫県姫路市
国道372号線沿い谷外小北側
区分 山城
最終訪問日 2008/6/11
庄山城縄張図 赤松円心則村の次男貞範は姫路城の前身となる姫山城を築いたが、やがて貞和5年(1349)にこの城を築いて移り、姫山城は小寺頼季に守らせた。貞範没後は赤松家の庶流として子の顕則が継ぎ、その子には将軍義持の寵臣で後に密通を問われて自殺した持貞のほかに、満貞(満則)などがいる。この辺りの系図については複数の説があり、満貞の父は顕則の弟頼則であったという説もあるが、それはともかく、この満貞の子が嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱における重要人物で、庄山城主でもあった貞村である。
 時の将軍は、くじで選ばれた義教で、義教は貞村を寵愛しており、いずれは赤松の惣領を満祐から奪って貞村に与えるという噂があった。そこで満祐は先手を打って義教を暗殺し、京を引き払って播磨で足利冬氏を擁立するが、幕府は諸大名を動員して討伐軍を発し、戦いに敗れた赤松氏の一族家臣のほとんどは没落した。これが嘉吉の乱であるが、この乱において貞村は討伐軍の一手の大将を務めている。
 戦後、赤松氏討伐で功を挙げた山名氏が播磨守護となり、庄山城も山名氏の属城となったが、赤松家は満祐の弟の流れである政則の時に再興され、応仁元年(1467)から足掛け11年に渡る応仁の乱の際に播磨を奪回した。その後、庄山城には姫路の小寺氏の一族である小寺康職や祐職の名が見え、祐職は守護赤松義村と守護代浦上村宗の対立の際、義村側に与して永正17年(1520)に美作岩屋城を攻撃したものの、浦上家臣宇喜多能家に敗れて討死し、代わって城に入った小寺政隆も、細川家の家督争いの余波で享禄3年(1530)に村宗に庄山城を攻撃されて討死し、城も落城している。
 政隆の子則職は、後に晴政と名乗る赤松政村を擁して細川晴元方に与し、細川高国方の村宗と摂津で戦った末、敗死に追い込んで勢力を回復したが、この時に庄山城の支配も回復した。その後は小寺氏の支配が続いたと思われるが、永禄12年(1569)に織田軍が播磨に出兵し、庄山城を落城させたというのが史料にあり、元亀年間(1570-73)には別所重棟が城を治めていたともある。重棟は別所一族の中でも中央と繋がりがあり、義昭に従って戦ったこともあるので、その関係で庄山城を得たのかもしれない。また、天正6年(1578)から同8年(1580)にかけての秀吉の播磨平定で小寺氏が滅び、黒田官兵衛孝高の子長興が入ったともいわれるが、詳細は不明で、廃城となった時期もよく判らなかった。恐らく、秀吉が本拠とした姫路城に近いことから、播磨平定後の天正9年(1581)の城割りで廃城になったのではなかろうか。
 城は、谷外小学校の北にある標高194mの城山山頂から山腹一帯にかけて構築され、東西500mに渡って連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に、西に出丸を、東と南に延びる尾根に複数の郭を配しており、山の南は比較的緩やかな勾配で、後背にあたる北側には急峻な地形と山地が続いている。江戸時代の地誌には庄や豊国という集落が南に幾つかあったことが記され、これらは城下を形成していた名残だろうか。
庄山城遠景 現在の城跡には、山頂から山腹にかけて石垣、土塁、堀切二本、井戸二基、木戸跡等が残っているらしい。しかし、最初に行った時は、城山中学校の近くに案内板があったので、その付近をかなり時間をかけて探してみたが、山に入る道がいまひとつわからず、2回目の時は、少し南西の谷外小学校の近くで地元の人に聞いても知らないということだった。現地の略図によると、小学校付近に大手道があるはずなのだが、現在も残っているのだろうか。次に行く時は、もう少し時間に余裕を持って散策してみようと思う。