枝吉城 所在地 兵庫県神戸市西区
JR西明石駅西1.3km吉田郷土館後背
区分 平山城
最終訪問日 2008/8/10
僅かに残っている本丸跡 名族赤松家の老臣であった播磨の豪族明石氏の居城で、築城は南北朝時代か、応仁元年(1467)からの応仁の乱の頃と見られる。
 明石氏は、明石国造の末裔で明石郡大領の流れとも、村上源氏赤松氏流ともいわれ、鎌倉幕府や室町幕府の役職にも明石を名乗る武将が就いているが、この枝吉の明石氏の祖であるかは不明である。
 室町期には赤松氏に従い、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱での赤松惣領家滅亡を経て赤松政則が家を再興すると、その再興や応仁の乱での旧領回復に活躍し、初代城主ともいわれる尚行や子の祐実は赤松家中で老臣的な地位となった。だが、応仁の乱後の山名氏との激しい争いで、政則に近かった別所氏が台頭して東播磨8郡の守護代になると、明石氏はその下風に立たざるを得ず、戦国時代になると別所氏には就治という武勇に秀でた当主が出て更に興隆し、明石氏は衣笠氏や間島氏といった周辺豪族と離合集散しつつ勢力拡大を図ったが、その影響下からは脱し切れなかったようだ。
 その別所氏は、戦国中期に尼子氏や三好氏と対立しているが、明石氏も天文23年(1554)から翌年にかけて播磨に侵入した三好長慶と戦って敗れている。これは、三好家が、自立的な動きをする別所氏や明石氏を牽制したい赤松晴政と誼を通じていたという背景があったようだ。しかし、背景はともかく、以後は三好家の命令で永禄9年(1566)には松永久秀の摂津滝山城を別所氏や周辺諸氏と共に攻撃するなど、三好家の陣触れに従う存在となってしまい、中央での合戦にも駆り出されている。
 三好氏に代わって織田氏が播磨に勢力を伸ばしてくると、当主であった則実はこれに従い、三木合戦では周辺豪族が別所氏に従う中、当時小寺を称していた黒田官兵衛孝高らと秀吉軍に投じた。ちなみに、孝高の母は明石氏の出である。
 天正10年(1582)の本能寺の変後、天正13年(1585)に則実は豊岡に移封となり、明石氏による明石郡支配は終わりを告げた。代わって高山右近重友が入部したが、重友は入部1年で新たに南の海際に船上城を築き、それに伴って城は廃城となった。ちなみに、明石氏は豊岡で豊臣政権の大名であったが、豊臣秀次に連座して改易となり、その庶流は姻戚であった黒田家に仕えたり、明石郡で帰農したという。
 明石氏はこの城を居城とした枝吉明石氏と、伊川庄を領した高畑明石氏に分かれていたが、後に合一して枝吉城が惣領家の本城となっている。ちなみに徳川家康の「明石狩り」で有名な明石全登は、備前に移った一族の末裔である。
 城は、明石川左岸の舌状台地の先端に築かれた平山城で、現在の神本神社が建っている付近に居館があったといい、その背後に詰の城があった。この詰城は本丸と二ノ丸を持ち、三木城と同様に詰城の台地南側の部分は人工的に張り出しをもたせていたことが判っているほか、居館の前面には水堀を穿ち、西側には城下町が広がっていたという。ただ、本丸があった台地は神社の背後に一部を残してはいるが、本丸の西側の大部分と、堀切を挟んで北にあった二ノ丸は、宅地造成によって削平され、全く残っていない。台地部分を散策すれば、中腹の小郭や土塁の跡と思われる僅かな土盛りなどを見付けることもできるが、往時の規模から比べると、やはり物足りない。それ以外では、付近に城下町や寺の名残と思われる地名が残っているのが、城があったということの名残である。
枝吉城縄張図 本丸と二ノ丸の間にあった堀切を利用したと考えられる道は地元の主要幹線で、道沿いに多くの店舗があり、買い物ついでに寄れる城である。ちょうど神本神社の秋祭りの日に訪れたことがあるが、宅地造成の際に出土した遺物を保管している吉田郷土館は、祭りの人で溢れていた。この郷土館には城に関する展示が殆ど無いのが残念だが、神社前面の広い道は水堀の跡で、周辺の狭い路地も当時の町割りをそのまま使っているものである。城は近世直前に役目を終えたのだが、その名残を探せば、現代まできちんと生き続けているというのが面白い。