淡河城 所在地 兵庫県神戸市北区
山陽道三木J.C.東2km県道38号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2005/7/13
 土豪淡河氏累代の居城。
 淡河氏は鎌倉幕府執権の北条氏の裔で、承久の乱後の整理で承久4年(1222)右近将監成正が地頭職となり、子孫が地名から淡河を称したという。また、一説には地頭となったのは北条時政の孫時盛の子である朝盛ともいう。
 鎌倉時代末期から建武期の淡河氏の動向ははっきりとしないが、南北朝時代初頭には南朝方に属していたようで、建武3年(1336)や暦応2年(1339)に合戦があったという。特に暦応2年の戦いでは、赤松円心則村の三男則祐率いる赤松軍によって淡河城が落城し、周囲一帯は赤松氏の支配となったが、以降も淡河氏が勢力を保っていることを考えれば、恐らく赤松氏に降伏して武家方に転じたと思われる。
 その後、南北朝合一が成り、子のなかった範清の時に赤松一族から季範を迎え、淡河氏は赤松氏の東の藩屏となった。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱では、季範の子則政は幕府軍に抵抗するもやがて降伏し、山名家に属して家名を保ったが、赤松政則が赤松家を再興すると則政の子政盛は再び赤松氏に属し、さらにその子則盛の時に再び赤松一族から娘婿として元範を迎えた。だが、戦国時代には赤松氏が守護としての力を失い、その守護代として力を伸ばしてきた三木城の別所氏に従うようになった。
 この元範の晩年と思われるが、天文23年(1554)に別所氏と対立していた有馬重則の要請で出兵してきた三好勢に攻撃され、落城している。その後、別所氏は三好長慶に属すことになったが、恐らく淡河氏も同様に三好氏の下知に従っていたと思われ、その功が認められたのか、それとも自力で武力を用いて奪回したのか、弘治年間(1555-58)か永禄年間(1558-70)の初期には淡河城に復帰している。また、これと同時期に、江見氏から定範が養子として迎えられた。
 別所氏は、長慶死後の三好家中の混乱と信長の上洛によって三好氏の影響下から脱し、東播の支配を確立したが、元亀元年(1570)に当主安治が死去した為、若年の長治が家督を継いだ。定範は別所安治の妹を娶っており、長治の義理の叔父として後見したという。
 当初、別所氏は信長と通じ、秀吉の播磨平定に協力したが、後に袂を分かって毛利氏に転じ、干殺しとまで呼ばれた秀吉による三木合戦が始まる。この合戦で淡河城は、花隈城から丹生山、そして淡河城を経由して三木へ糧食を運ぶラインを担った重要な補給拠点であった。補給路を潰してしまいたい秀吉は、弟秀長に命じて天正7年(1579)にこの城を攻撃させるが、定範は逆茂木や車菱で秀長軍を足止めし、そこに集めていた牝馬を放って軍馬を混乱に陥れ、そこに兵を突出させて見事撃退した。しかし定範は、淡河城では大軍を支えられないと悟り、自ら城を焼いて6月には三木城へ移った。そして、同年9月10日の攻防戦で討死している。
 戦後、淡河城は有馬則頼に与えられてその居城となったが、則頼は後に横須賀に移り、関ヶ原の合戦後に再び三田に戻った。この横須賀に移っている間は三木城の属城となっていたか、あるいは有馬氏の飛び地扱いだったのかよく分からないが、三田に戻った則頼は新城を築城して淡河城を廃した。そして、その後も空城として何らかの設備が残っていたようだが、元和元年(1615)の一国一城令で破却されている。
 城は、淡河川と丹生山系から流れ出る川を堀として、その合流点付近の数10mの崖上という要害の地にある。現在は、本丸は果樹園、二ノ丸は畑となっており、その他の郭には遺構が無いようだが、本丸の周囲に巡っている内堀は旧状をよく残し、本丸には土塁の跡も見られる。また、天守台には社があり、淡河城の資料が若干ながら置いてある。他には、本丸から堀を隔てて南東側に淡河氏の菩提寺であった竹慶寺の跡があり、歴代の城主の墓が白壁の塀に囲まれてひっそりと佇んでいる。