妻鹿城 所在地 兵庫県姫路市
山陽電鉄妻鹿駅北700m
区分 山城
最終訪問日 2008/6/11
麓の荒神社にある妻鹿城址碑 甲山にある為、甲山城や国分山城、功山城とも書かれるが、読みはすべてコウザンである。恐らく、播磨国府に近いことから、もともとは国府山と書き、コウの読みに甲や功の字があてられたのだろう。その他では袴垂城とも呼ばれていたらしいが、こちらは山の形からだろうか。
 妻鹿城は、この地の住人妻鹿長宗が元弘3年(1333)に築いたという。長宗は、太平記にも大力の士として登場する武将で、平安時代の伝説の相撲取り薩摩氏長の子孫と称し、鎌倉末期の争乱で赤松円心則村に従って功を挙げた。太平記からは、六波羅攻防の際にすでに妻鹿と称していた事や、一族郎党が17人居たのが判るが、妻鹿周辺の零細領主か悪党の類だったのだろう。それが恩賞によって身代が大きくなったことにより、支配拠点として相応の城を築いたというのが妻鹿城築城の理由ではないだろうか。ただ、長宗自身は全国を放浪していたともいわれ、父祖の代からこの地に居たというわけではない。
 長宗以降の城主としては、長定、貞祐の名が現地の碑に見える。長定は長宗の孫だが、貞祐は長宗とは別の赤松系妻鹿氏で、文正元年(1466)に妻鹿へ入って地名を称したという。長宗の子孫がいつまで続いたかは不明だが、赤松氏が没落した嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱かそれ以前に没落し、故地で復興されることはなかったようだ。
 貞祐は、嘉吉の乱の原因となった赤松貞村の子とも弟ともいわれることから、貞祐の入部自体は政則による赤松家再興の動きとは関係無さそうである。また、貞村は、将軍家に仕えた赤松庶流の春日部赤松家の中の伊豆殿と呼ばれる名門の流れで、播磨国内に多くの領地を持っており、貞祐はその中から妻鹿を継いだと考えられるが、子孫は定着せず他の領地へ転じたようだ。後になって、高浜を称した子孫から定次が出て再び妻鹿を称したようだが、これもどの程度の領主であったかよく分からない。
妻鹿城鳥瞰図 戦国中期に入ると、姫路周辺は御着城を本拠とする小寺氏が支配し、その家臣として黒田重隆が登場するが、この重隆の室が妻鹿氏出身だったようだ。これは、妻鹿氏が小寺氏の家臣筋と同程度という事の傍証で、この頃の妻鹿氏は、小寺氏の影響下にあったかそれに近い程度にまで衰退していたと思われる。
 この次に妻鹿城が歴史に登場するのが重隆の子職隆の時で、天正元年(1573)に姫路城から移ったが、この頃にはすでに子官兵衛孝高に家督を譲っていたとされることから、恐らく隠居城として使ったのだろう。その後、孝高は天正5年(1577)に織田家の中国方面軍の指揮官だった秀吉に拠点として姫路城を提供し、自らはこの妻鹿城に退いている。織田家と播州の諸豪族との戦いでは、孝高が有岡城で捕縛されて生死不明となるなど、紆余曲折があったが、天正8年(1580)の三木城攻略後、秀吉は姫路城を本格的に本拠地として使用し、名実共に妻鹿城が黒田家の居城となった。そして、時期は諸説あるものの孝高がやがて山崎城へ移ると、妻鹿城は再び職隆の隠居城となり、職隆は天正13年(1585)の没年まで城主を務め、職隆の死後、主を失った妻鹿城は廃城になったという。
 城の構造は、大きく分けて主郭部の郭群と、そこから一段下がった所の郭群の2つに分けられる。北東から南西に長い甲山頂上部に標高差無く主郭と磐座が連続してあり、更に南西の端には経塚があって、これらが主郭の郭群を成していた。そして、主郭と磐座の東南側には、腰郭のような細長い郭を含めた幾つかの郭が一段下に在り、主郭を守るようにひとまとまりとなっている。また、規模は不明だが、現在でも僅かに石垣が残っているらしく、往時の郭は総石垣に近かったのかも知れない。
本丸から姫路城方向の眺め 荒神社から山を登っていくと、城郭部分の入口となる送電鉄塔付近に5分ほどで着くが、その途中の左手側に湧水を溜める井戸のようなものと、右手側の下り斜面に数段の削平地があった。神社にあった城の縄張図にこれらは書かれておらず、後世のものかどうか判断できなかったが、石垣に使われたようなレキ石も散乱しており、平時の屋敷や番所といった建物があった可能性もある。視界が開けている送電鉄塔から城郭部分へ入っていくと、鬱蒼とした木々に阻まれて郭の形がよく判らず、この辺りにあるはずの経塚は判然としなかった。その先にある、姫路城を眺めることのできる場所が本丸であったと思われるが、この辺りはそこそこ広さもあり、ここから磐座にかけては平坦地が連続していて、かなり面積がある。また、磐座から一段下に下りる道があり、向きを変えて逆方向に細長い形の郭を辿って行けたが、こちらは主郭の下の辺りで藪に阻まれた。また、送電線に沿って石垣も見に行こうと思ったのだが、こちらも密生した矢竹などで道が途絶えており、どうしようもない状態である。
 訪れた時期が時期だけに竹や藪の繁り方が相当なもので、更に訪れる人もそう多くないのか登山道が藪化しているところもあり、散策には難渋した。また、当日は天気が良くなく、本丸から姫路城がうっすらとしか見えなかったのも残念だったが、天気が良ければ姫路城と姫路市街が一望できるという。頂上部分の郭は広く、構造もはっきりしていたので、草の少ない冬の時期に来ればもう少し遺構を楽しめる城なのかもしれない。