黒田職隆墓
所在地  兵庫県姫路市
山陽電鉄妻鹿駅東200m
最終訪問日  2008/6/11
黒田職隆の廟所 秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高の父職隆の墓。
 黒田家は、播磨国黒田庄の土豪という異説もあるが、近江源氏佐々木氏の庶流とするのが一般的で、職隆の祖父高政が戦国時代初頭に流浪して備前福岡へ行き、同じく父重隆が播磨へ移り住んで財を成し、御着城主小寺氏に仕えたという。また、職隆自身が小寺領を荒らしていた香山重道を討ち、この功によって召し抱えられたとも伝わる。
 職隆は誠実な人物であったらしく、主君小寺政職からの信頼は絶大で、政職は赤松家中で小寺氏と同格だった播磨国明石の領主明石正風の娘を養女にして職隆へ嫁がせ、職隆を小寺一門として遇したほか、かつての小寺氏の本拠姫山城の城代にも任命した。また、職隆の職の字が政職からの偏諱であったことは言うまでもない。
 その後、職隆は子孝高が元服すると早々に家督を譲り、自らはその後援の役割を果たした。孝高が小寺家の家老として、織田家と小寺家、別所家を結び付けるのに尽力するのだが、職隆が姫山城で実直に家政を見ていたからこその活動だったのだろう。だが、東播州の旗頭であった別所家が織田家から離反すると、孝高の企図した織田家と各勢力の関係は崩れ去り、荒木村重の叛乱などもあって主家の小寺家ですら織田家から離反する。そして、孝高も村重の有岡城へ説得に赴いたまま帰って来ず、一転して黒田家は存亡の危機を迎えてしまう。この時、職隆は自ら当主に復帰することを決め、これまでの路線に従って織田方に与す姿勢を続け、動揺することなく冷静に対処して家を保った。このような職隆の働きがあったからこそ、孝高が生還した後に秀吉の軍師として飛躍できたのである。
 播磨が織田家によって統一された後、孝高は名実共に秀吉の軍師となり、中国方面の攻略へ動き出すが、秀吉は職隆を信頼し、遠征の際は職隆が姫路城の留守を守ったという。誠実で尚且つ冷静に対処できる能力が認められていたということだろう。こうして孝高の後援役を果たしつつ、その雄飛を見届け、天正13年(1585)8月22日、職隆は生涯を終えた。享年62。
 廟所は、職隆と孝高の父子が姫路城を秀吉に譲って移ったという妻鹿城のすぐ近くにあるが、妻鹿の町中の住宅街の一角という、なかなか見つけにくい場所にある。五輪塔の刻銘は風化して一部判読不可能になっているが、没した日と黒田という名字、宗円という法名は読み取れるという。廟所は周囲から一段盛り上がった場所にあり、碑が建てられているほか、塀に囲われて厳かな雰囲気が漂っており、住宅地の静かな空気がよく合っていた。また、廟所のすぐ近くには筑前さん参道という道標があり、地元の人から筑前さんの名で呼ばれて大事にされているようだ。ちなみに、筑前さんの呼び名は、黒田家が筑前福岡藩主であったことから来ているらしい。