越水城 所在地 兵庫県西宮市
阪急電鉄夙川駅北東900m大社小付近
区分 平山城
最終訪問日 2013/4/10
越水城址碑と説明板 三好長慶の最期の拠点として有名な城。
 越水の地名は小清水から来ているが、今でも湧水が残るこの丘陵は、西宮の町も近く、今の国道171号線にあたる西国街道を眼下に見下ろすことが可能という地勢的に重要な場所で、幾度か戦場になっている。古くは、建武政権から離脱した尊氏が敗れて九州へと落ちる直前の建武3年(1336)2月のことで、劣勢だった尊氏に西国勢の援軍が西宮に上陸して加勢したが、小清水で辺りで新田義貞勢と戦って敗れたという。
 その次に登場するのは観応の擾乱の時である。この乱は、室町幕府内で足利家執事高師直と尊氏の弟直義が対立し、師直に尊氏が加担したことによって兄弟対立となった内乱で、九州で挙兵した直義の養子直冬の討伐の為に尊氏が九州へ出陣した隙を衝いて直義が南朝に転じて挙兵し、京を占拠したことによって武力衝突へと発展した。報せを聞いて兵を返した尊氏軍と直義軍は幾度か矛を交え、やがて観応2年(1351)2月17日に芦屋の打出浜で決戦を行うのだが、これを太平記では小清水合戦としている。主戦場は打出浜であったが、それほど離れていない小清水にも陣が置かれ、戦いがあったようだ。
 その後、この小清水に正式に城が築かれたのは永正13年(1516)で、武庫川西岸の瓦林城主瓦林正頼によって築かれ、東西約100m、南北約200mの規模があったという。また、名前も小清水城の他、この頃から越水の字が登場している。
 築城された当時、中央は両細川の乱と呼ばれる細川家惣領の家督争いに将軍職を巡る争いも加わり、細川澄元に擁された前将軍足利義澄と、大内義興と細川高国の協力を得て将軍職に復帰した足利義稙の陣営に分かれての抗争中であったが、永正11年(1508)8月の義澄の病死と船岡山合戦の義稙陣営の勝利によって、しばしの安定期が訪れていた。とは言え、本拠地の阿波に落ちた澄元は虎視眈々と上洛の機会を窺っており、高国は警戒を怠ってはないかったようである。越水城は、この澄元勢に対する防衛拠点として期待されていたのだろう。
 築城翌年の永正14年(1517)、澄元の家臣三好之長が淡路に入り、澄元方から高国方へと転じていた淡路守護細川尚春を追って反攻姿勢を強める中、翌年には高国方の軍事的中枢を担った義興が領国の不安と政権内の不協和音から周防へ帰国すると、その翌同16年(1519)秋に下田中城で池田信正が挙兵し、澄元勢の反攻が始まった。この時、正頼は下田中城の攻略に失敗し、その僅か半月後には、上陸した三好軍に越水城を包囲されて籠城に追い込まれてしまい、翌同17年(1520)には高国軍の後詰が敗れたことにより、2月に開城して城を落ちている。こうして、城は三好軍の手に落ちたが、澄元が高国を近江へ追って政権を樹立したのも束の間、5月には高国の反攻に敗北し、之長は斬首され、それを知った澄元も体調を崩して翌月に撤退先の阿波で病没した。これに伴い、越水城も高国側の手に戻ったと思われる。しかし、この頃の城主などはよく分からなかった。
 その後、澄元の子晴元と之長の孫元長は阿波で力を蓄え、足利義維を擁立して大永6年(1526)に再上陸し、義澄の遺児で新将軍となった義晴と高国を近江へ追って堺公方を成立させたが、高国側の反攻もあって両者は戦いを繰り返し、享禄4年(1531)の尼崎の大物崩れでの高国軍の崩壊及び高国の自害によって、ようやく両細川の乱は終息を迎えることとなる。この頃の越水城は、高国が大物城を拠点としていたことから、大物崩れまでは高国側の武将が入っていたと想像できるが、それ以降は三好氏が掌握したようだ。
 その後、天文2年(1533)には、瓦林氏の一族が一向衆と結託して三好加賀守の籠もる城を攻め、一旦は奪い返したとされるが、これは晴元と元長の対立によるものだろう。この前年に、晴元の寵臣木沢長政を元長と長政の主筋である畠山義堯が攻めたが、晴元は一向衆を動員して壊滅させており、この結果、元長は自刃に追い込まれている。三好家は代々、一向宗と対立する法華宗に帰依していたからであった。ちなみに、この宗派対立は、やがて天文法華の乱へと続いていく。
 この元長の自刃後、一時は衰退した三好家であったが、その嫡男長慶は若年ながら早くも翌年には頭角を現し、晴元と本願寺の間を仲裁したほか、本願寺の意向に従わない一向衆を討ち、奪われた越水城を奪回したという。そして、後には摂津守護代に任ぜられて越水城を本拠とした。その後、天文10年(1541)に反晴元の立場であった伊丹親興に攻撃されているが、撃退した上で富松城をも奪っている。
 長慶は、以降も晴元の命で畿内各地を転戦し武功を挙げていくが、父の代から政敵であった同族三好政長との対立から、天文17年(1548)に晴元から離反して高国の養子である細川氏綱側に転じ、晴元と将軍義晴を近江へ追い落とし、実質的に三好政権を樹立した。これに伴い、天文22年(1553)に拠点を芥川山城へと移したとされる。
 三好家の居城ではなくなった越水城だったが、その後も摂津の重要拠点としては変わりなかった。永禄年間(1558-69)中頃には瓦林三河守が城に在ったらしいのだが、後には三好家重臣篠原長房の名が城主として見えるほか、ルイス・フロイスも立ち寄ったことがあり、永禄9年(1566)には三好三人衆によって14代将軍に擁立された足利義栄も一時入城している。この義栄入城の3ヶ月前に、三河守が越水城を攻撃し、一旦は奪取するものの、僅か4日で長房に奪い返されているが、これは長慶没後の三好三人衆と松永久秀の対立の余波だろう。その後、永禄11年(1569)の信長上洛によって三好三人衆や長房が四国に撤退したことで信長の属城となり、将軍就任前の足利義昭や和田惟政が在城したが、翌元亀元年(1570)の三人衆の反攻に合わせて長房も越水城を攻撃し、瓦林三河守を討って城を奪回している。ただ、この戦いは瓦林城でのことともいう。この後、同年12月に正親町天皇を引っ張り出した信長と反信長陣営の和睦が成立した為に長房は阿波へと戻り、城は信長の命で同年に廃城になったというが、後に荒木村重が奪ったとの説もあり、廃城直前の頃の事跡は不明確のようだ。
 城は、西の夙川と東の東川に挟まれた丘陵にあり、本城には正頼が居し、外城に子春綱を始めとする同名衆や被官が居住した。さらに城内に入らない家人などは西宮の町に住んだとあり、西宮の町が城下町の役割を担ったようだ。縄張の詳細は不明だが、旧陸軍が本城と思われる部分を記録したものが残っており、南北80mほどの三角形の郭で、最北端の丘陵頂上部分が周囲よりやや高く、櫓があったと思われる。この部分に日本最初の天守があったとの説もあるが、それはどうも根拠が薄弱のようだ。とは言え、長慶飛躍の城であり、足利一門も入城するほどの城で、それ相応の壮麗さを備えていたのは間違いない。ちなみに、市の発掘調査では、越水城と明確に比定される遺構は発見できておらず、詳細な城域は不明ということになっている。
 国道171号線から城の方向へ入っていくと、今は閑静な住宅街となっているものの急峻な細い坂道が続いており、当時の城は六甲山系の突端部を利用した平山城であったことが一目瞭然だ。ただ、城の遺構自体は何も残っておらず、小学校南東部に城址碑と説明板があるのみで、他と同じく市街地の城の宿命だろうか。城跡周辺は道が細く、車で行っても止める所が無い上、一方通行もあるので、徒歩で行くか、十分に周辺を下調べした上で行ったほうがいいだろう。