伊丹城 所在地 兵庫県伊丹市
JR伊丹駅西すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2010/5/26
有岡城址碑と模擬の桝形 伊丹氏代々の居城で、有岡城ともいう。
 伊丹氏は、藤原北家魚名流の利仁流加藤氏が祖とされる。登場時期としては、平安時代末期に伊多美という武士の存在が確認できるが、これは伊丹氏との繋がりが分からない。家伝では、頼朝に従った加藤景廉の裔景親が伊丹を称したという話や、加藤親俊の孫親元が伊丹を称したという話が伝わるが、文献上では、鎌倉時代末期に伊丹親盛が六波羅探題の守護使として注進状に残っているのが最初で、同時代には伊丹好智という名も見える。
 伊丹城については、伊丹を称した景親が居館を築いたのに始まるとされるが、文献上の登場は南北朝時代で、文和元年(1352)に尊氏に与した伊丹景雅が楠木正儀に敗れて討死し、伊丹城も攻撃に遭ったが、なんとか落城は免れたというもの。これは森本長基の軍注状にあるが、伊丹伝記にも同様の内容があり、こちらは元弘の乱の時の話として、伊丹勢は景雅討死後に城を捨てて三田に落ち延びたが楠木正成が湊川で討死した際に景雅の弟雅扶らが正儀配下の丹下志貴を追って伊丹城を奪還したとする。史実としては軍注状が確実なのだが、元弘の乱の頃は尊氏の九州落ちにより親尊氏勢力が窮地に陥っていたのも事実で、伊丹家伝は文和の頃の話と元弘の乱の頃の窮状という、2つの史実が混ざったものなのかもしれない。
 以後の伊丹氏では、和歌を残した之親、元親父子や、文明10年(1478)に興福寺及び春日大社の領地武庫之荘の代官に任命された親時などが見え、いずれも細川家臣として活動しており、歴代当主は大和守か兵庫頭の官途を称したようだ。
 戦国期に入ると、永正の錯乱に始まる細川家の内訌で元扶の名がよく見られ、細川高国の重臣として細川澄元や三好之長と戦っている。伊丹城では、元扶が永正8年(1511)に澄元方の赤松義村の攻撃を城で退けたが、高国政権が崩壊した同17年(1520)の澄元軍の攻撃では落ち延び、伊丹城は澄元の重要拠点となった。同年の高国陣営の逆襲で元扶が澄元を追って城へ復帰した後、大永6年(1526)とその翌年には、高国に叛いた柳本賢治らの丹波衆や澄元の子晴元方の三好勢に対して籠城し、城はびくともしなかったという。その後、元扶は晴元側に転じたが、之長の子元長と親しかった為、晴元政権下で元長と対立した賢治によって享禄2年(1529)に攻められ、元扶は城を枕に討死した。
 同年の賢治の横死後、混乱を衝いて伊丹勢は城を奪還し、元扶の弟国扶が新たに城主となったようだ。この頃、畿内の情勢は混乱を極め、享禄4年(1531)の大物崩れで高国が自刃した後、晴元と元長が対立し、翌年には一向宗を巻き込んで争乱が広がっていくが、この時に伊丹城も一向宗徒の攻撃を受けている。この時は、籠城している間に反発した法華衆徒が一向宗徒を襲った為、一向宗徒は敗退したという。
 天文年間(1532-55)後半になると、伊丹城主として親興の名が登場してくる。親興は晴元に属していたが、元長の子長慶が晴元と対立して高国の養子である氏綱側に転じ、天文18年(1549)に晴元を京から追うと、同年から翌年にかけて三好勢の攻撃を受けた。しかし、城は落ちず、長慶と和議を結び、以後は三好方となっている。その後、永禄11年(1568)に信長が上洛するとこれに降り、池田勝正、和田惟政と共に摂津三守護として本圀寺の変や天王寺などで三好党と戦った。しかし、元亀3年(1572)頃に信長と将軍義昭の蜜月関係が崩れると、親興は義昭を支持して信長と対立し、信長に臣従した荒木村重の攻撃で天正2年(1574)に城は落城、親興は自害したと伝わる。また、一説にはこの頃の城主は子の忠親であったともいう。
 伊丹氏没落後、摂津を任された村重は、この伊丹城を大々的に拡張して惣構えを持つ城に改修し、有岡城と名付けた。これは最古の惣構えとされている。しかし、僅か4年後の天正6年(1578)には突如として謀叛を起こした。理由としては、配下の兵が本願寺側へ兵糧を渡したとの噂が立った為だとか、旧知の武将が別所方に付いた事で疑われた為だとか、出世を妬んだ同僚の讒言によって進退に窮した為などといわれ、謀叛を企んだ明智光秀による讒言という突飛な説まであるが、真相は分からない。いずれにせよ、反織田陣営となった村重は織田軍に包囲され、12月に攻撃されたが、この時は信長の側近万見重元の討死など、織田軍の損害が大きかった。城の堅さを知った信長が持久戦を採ると、戦局は膠着し、焦った村重は翌年9月に援軍を求めて尼崎城に移っている。だが、毛利氏からの援軍は得られず、10月には織田軍の調略と総攻撃で伊丹城は落城開城し、尚も降伏しない村重に対して、見せしめとして一門や家族など多数が処刑された。
 戦後、摂津は池田恒興に与えられ、伊丹城には嫡男元助が入ったが、天正11年(1583)に美濃へと移された為、復興されることなく廃されたという。
 城は、猪名川の河岸段丘上にあり、東に伊丹川、駄六川、猪名川が流れ、段丘の崖を防御力として川に近い東側の丘を本丸としていた。そして、本丸から西へ低い三角形の形で城域を広げ、東の主郭から放射状に侍町、町屋と区画し、防御力強化の為に北の頂点に岸の砦を、南の頂点に鵯塚砦を、西の長辺上に上搨ヒ砦を設けている。最終的な大きさは、東西800m、南北1600mの規模で、村重時代の完成だが、澄元が拠点とした頃には早くも惣構えの兆しが見られ、その当時からかなりの堅城であったらしい。ちなみに村重が名付けた有岡という名は、伊丹よりも小さな地名で、奈良時代の頃、仏が光を放ったという伝承から明岡と呼ばれ、やがて有岡に転じたものという。
発掘された石垣 現在の城跡は、明治の鉄道開通によって本丸東側が削られ、城域全体も市街化されているが、昭和50年の発掘調査から史蹟公園として整備が進められ、発掘された石垣や井戸などが伊丹駅前に姿を留めているほか、3ヶ所の砦には土塁や石垣が見られるらしい。また、駅前の急な坂道などは、築城に適した台地であったことの証明と言えるだろう。市街化で現地から城の全体像を掴むのは難しいのだが、暗渠にされかかった伊丹川などの細流、猪名野神社近辺の路地など、地図を読み解けば輪郭が浮かび上がってくる城でもある。