姫路城 所在地 兵庫県姫路市
JR姫路駅北1.4km
区分 平山城
最終訪問日 2011/11/5
姫路城の大天守と小天守 言うまでもなく国宝五城のひとつで、世界遺産として有名であり、三大名城、三大連立式平山城にも数えられているが、もとは室町幕府創業の功臣赤松円心則村の次男貞範が築いた姫山城という小城だった。築城年は貞和2年(1346)が有力だが、同5年(1349)説もあり、元弘3年(1333)に則村が姫山の称名寺を砦に使用したのが最初とも、本格的な築城は黒田官兵衛孝高の祖父重隆の頃ともいわれる。
 ともかく、通説では、姫山城に在った貞範が貞和5年(1349)に庄山城を築いて移ると、姫山城には目代の小寺頼季を置き、以降は小寺家の統治が続く。途中、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱での赤松氏没落で小寺職治が討死した後、乱で功を挙げた山名持豊が入部したが、応仁元年(1467)からの応仁の乱で赤松政則が播磨を回復すると、赤松家再興に尽力した職治の子豊職が復帰し、再び小寺氏に支配権が戻っている。その後は、豊職の子政隆が永正16年(1519)に御着城を築いて移った際に子の則職が城主となり、やがて則職も御着城へ移ると、八代道慶、そして黒田重隆が城代を務めた。この重隆入城は天文14年(1545)のことという。また、姫山城はこの重隆と子職隆の頃である弘治年間(1555-58)前後に大改修されているが、この直後の永禄4年(1561)が、姫路城が確実に存在したと史料上にある最古の年であるらしい。
 この重隆の孫官兵衛孝高は小寺政職に仕え、若年ながら家老職にあり、西播磨に威勢を振るう赤松政秀や毛利軍を寡兵でもって破るなど、活躍は目覚しかった。天正5年(1577)に織田家の勢力が播磨に及んだ際には、主家小寺家や近隣の諸豪族を説得して織田家に付かしめ、更に秀吉に姫山城を拠点として提供している。たが、後に播磨最大勢力である別所家が毛利方へ寝返り、さらに織田家臣荒木村重も寝返るに至って説得に向かった伊丹城で拘束され、伊丹城の落城で救出されるも、歩行の自由を失ってしまう。そして、これ以降、秀吉幕下の軍師として鬼謀を振るうことになる。
城内から見た天守 天正8年(1580)に播磨平定が成った後、秀吉は三木城を本拠にしようとしたが、孝高は港を持つ城がこれからは大事であると進言し、秀吉は正式に姫山城を本拠地とした。そして、城には大規模な改修が施されて三層四階の天守が上げられ、姫山の隣の鷺山に城地を拡張し、名前も姫路城に改称している。もともと姫路は、姫道や姫地などと書いてヒメジと読んでおり、新たに付けられた名前ではなかったが、姫路という字は姫山と鷺山から取ったものともいわれ、これ以降は姫路の字が一般化した。
 天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、備中にいた秀吉は毛利氏とすぐ和睦し、山陽道を東上してまずこの城で足を休めている。所謂中国大返しだが、この時、秀吉は城中の財貨や兵糧を全て将兵に分け与え、士気を鼓舞したという。これは、噂を聞いて集まる兵が増えるという現実的な面と、勝っても負けても姫路に戻ることはないという、大勝負への意気込みもあったのかもしれない。
 山崎の合戦で光秀を破った秀吉は、翌年から大坂築城を開始し、姫路には弟の秀長を入れたが、秀長は四国征伐後の天正13年(1585)に大和郡山へ移り、代わって木下家定が入部する。家定は、木下の名字から判るように秀吉の数少ない一族で、北政所の兄だが、秀吉は僅かしかいない一族衆を姫路に置くほど、この地を重要視していた。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、姫路には家康の娘婿池田輝政が入り、翌年から西国将軍の名に相応しい居城にすべく改修が行われ、慶長14年(1609)に完成したのが現在残る城郭の原型である。その後、元和3年(1617)に本多忠政が入部し、嫡子忠刻に輿入れした千姫の化粧料で西ノ丸や武蔵野御殿を整えて城を完成させた。城に厳しい幕府がこのような巨城を許したのは、仮想敵である西国大名の東上をこの姫路城を始め、明石城、尼崎城、大坂城の各城で防ぐ為で、本多氏の後、奥平松平、越前松平、榊原、越前松平、本多、榊原、越前松平と親藩譜代が目まぐるしく入れ替わるのも、要地を幼主に任せなかった為である。だが、酒井氏が寛延2年(1749)に入部するとようやく落ち着き、維新まで続いて老中や大老といった幕府要職を輩出した。
修復の為に覆いを被せられている大天守と水堀 城は、大きく内郭、中郭、外郭の3つの部分に分かれ、それぞれ堀で区画されて左回りの螺旋を描くように設計されており、現在残っているのはまさに城の中心部分である内郭である。当時は、国道2号線以北の中郭に武家屋敷があり、JR線以北の外郭には城下町があって、城下町まで包含した惣構の城であった。
 他の城では天守であってもおかしくない東西乾の3つの三層小天守が、標高45.6mの姫山頂上にある五層七階の大天守に二層の渡櫓で連結され、その直下には輝政の名前を冠した備前丸があり、これらで本丸が構成されている。その南に二、三ノ丸と続き、南方向から北へ上る梯郭式の城郭となっているが、西には西ノ丸がやや独立したような形で存在し、東の出丸を加えた5つの郭で内郭と呼ばれていた。また渦を巻くような構造から、渦郭式城郭とされることもある。
 現在、姫路城には大天守や小天守など8棟の国宝があり、櫓や門など74棟が重要文化財に指定され、白漆喰総塗籠造の白壁が、建物の配置のバランスもあって、尋常ではないほど美しい。さすがに、こればかりは実際に行かないとちょっと解らないだろう。第二次大戦では、姫路市街は空襲で焼失したが、姫路城は奇跡的に損壊を免れ、美しさだけではなく強運も持ち合わせている城というのも、名城たる所以だろうか。