花隈城 所在地 兵庫県神戸市中央区
神戸高速鉄道花隈駅北東150m
区分 平山城・海城
最終訪問日 2003/10/12
 花熊城や鼻熊城とも書かれる。
 築城年代は永禄10年(1567)とも天正年間(1573-93.1)の初期ともいわれ、信長の命を受けた荒木村重によって築城されたという説が一般的だ。しかし、永禄10年説であれば、上洛した信長が池田の池田勝正を臣従させる前であり、勝正の配下であった村重の築城と考えるのには無理がある。従って当時摂津に勢力を持っていた三好家の誰かということになり、西摂津の拠点だった滝山城の支城として築かれたと見るのが妥当だろう。また、天正年間の築城であれば、それは間違いなく本願寺対策の為であり、瀬戸内海を介して繋がる毛利氏との連携を遮る目的だったと思われる。
 村重が勝正追放に加担して池田家の実権を握り、和田惟政や伊丹親興を打倒して摂津を掌握した後、城には一族の荒木元清を配して西の押さえとしていた。だが、村重は天正6年(1578)に信長に対して叛旗を翻す。
 伝えられる話では、本願寺攻略のさなかに配下の兵卒が本願寺側に兵糧を渡したとの噂が立って信長に誅されるのを恐れた為だとか、旧知の武将が別所方に付いた事で疑われた為だとか、出世を妬んだ同僚の讒言によって進退に窮した為などといわれ、謀叛を考えていた明智光秀による讒言という突飛な説まであるが、いずれにせよ播磨攻略戦での戦意の無さなどを考えると、謀反前後は追い詰められて通常の精神状態ではなかったように思われる。計画的な謀反を考えているならば、普段通りかそれ以上に忠勤に励むほうが信長に悟られにくく、また、当然ながら虚を突くことから対策も講じられにくい。池田家中での下剋上の仕方を見ても謀略が使える人物であり、尚且つ前線に多く立って合戦の呼吸をわきまえた経験豊富な武将としてはちょっと考えられない行動で、計画的でないことは間違いなさそうだ。
 ともかく、反信長陣営に投じた村重は居城有岡城に籠城するが、高槻城の高山右近重友と茨木城の中川清秀が信長に帰順して東摂津が失われ、北摂津も各城の家臣が織田方に寝返り、兵糧攻めされた村重は翌年、家臣数名と共に極秘裏に尼崎城に移る。この行動は、逃亡とも、直接毛利家に援軍を請う為ともいわれるが、尼崎城から雑賀衆などの援軍を求める書状を出しており、村重にとって起死回生の一手だったのかも知れない。だが、期待していた毛利の援軍は来ず、毛利氏の援軍を強く催促するかのように更に12月には尼崎城からこの花隈城へと移っている。
 花隈城は、この織田家と反織田連合の一連の戦いで、別所氏の三木城へ糧食を運ぶ補給路の重要な中継拠点のひとつであった。この花隈城からの補給路は村重の謀叛によってできたものである。しかし、三木城が堅いと知った秀吉はこの城から北へ繋がる補給路を潰し、着々と三木城を孤立化させていく。この補給路潰しが天正7年(1579)5月、反織田陣営だった丹波波多野氏の滅亡が6月、村重の尼崎城への脱出が9月、花隈城への移動が12月である。村重の焦りが日に日に増して行ったのは想像に難くない。
 村重は天正8年(1580)正月に別所氏が滅亡した後も、この城で絶望的な籠城戦を戦い続けてよく城を支えたが、同年7月に落城して毛利氏を頼って落ち延びた。後に村重は自嘲するように道糞と名乗って秀吉に仕えているが、高山右近重友を非道の者と罵ったという逸話があり、この時のことはなかなか忘れられるものではなかったようだ。
 城はその後、花隈城攻略に功のあった池田恒興に与えられたが、恒興は花隈城を廃し、その資材を用いて兵庫城を築いた。ちなみに恒興は信輝の名でも知られ、諸説はあるものの一説には摂津池田氏の支流とされる。その説が正しいとするならば、摂津池田氏の勝正に取って代わった村重が、再び池田氏に取って代わられたということになり、歴史の巡り合わせとは言え、因果応報と言えなくは無いのかも知れない。
 花隈城のハナは鼻、つまり海に突き出した岬という意味で、今の城跡は市街地に没しているが、当時は城のすぐ南に海があったという。また、北には斜面が迫っており、当時の地形がおぼろげながら判る。城地は東西約350m、南北約200mの範囲で、現在の城跡には花隈公園の石垣があるが、これは遺構ではなく公園造成の際に造られたもの。昔の石垣の残骸が僅かながらあって、工事の際にそれを使用したということも考えられるが、兵庫城築城で資材が持ち出されている為、ほとんど遺構は残っていなかっただろう。公園には、江戸時代を生き抜いた池田家によって花隈城址の碑が建てられている。