福中城 所在地 兵庫県神戸市西区
国道175号線福中交差点付近
区分 平山城
最終訪問日 2012/4/21
間嶋氏の口碑 国道175号線の芝崎交差点から福中交差点付近にあった城で、赤松氏の支族であった間島氏が文明年間(1469-87)に築城したとされ、東から延びる舌状台地の先端部に作られた平山城であった。
 間島氏は間嶋とも書かれ、足利尊氏に従って赤松家を興隆させた赤松円心こと則村よりも前に分かれた赤松一族である。円心の4代前の則景から分かれたとも、5代前の頼則から分かれたともいわれ、代々彦太郎を通称とし、南北朝時代には範清という人物が摂津守護代となっているが、福中城の間島氏が守護代の流れなのか、それとも庶流など違う流れなのかは不明という。
 城のある明石郡平野庄へは、南北朝時代の初期に地頭として入部したとされ、この福中の間島氏も代々彦太郎を通称としていた。史料には、間島則真という人物が室町時代の正長年間(1428-29)に、同じ神戸市西区にある性海寺へ土地を寄進したという記録が残っている。
 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の後、間島氏は赤松家再興の為、後南朝方から神器を奪還するという働きを見せ、新たに赤松家に与えられた加賀に入部し、加賀守護代となっていたようだ。しかし、この間島氏は応仁元年(1467)からの応仁の乱に参陣して討死しており、これ以降、子孫がどうなったかなどの詳細はよく分からない。
 戦国時代の間島氏は、東播磨に勢力を持った別所氏を盟主と仰いでいたようだが、天文23年(1554)から翌年にかけて播州に三好長慶の勢力が及ぶと、別所氏と共にその影響下に入り、永禄2年(1559)の河内高屋城攻めや、松永久秀が支配する摂津滝山城を攻めた同9年(1566)の戦いにも三好方として参陣している。戦国時代後期には、三好氏の勢力が後退した事によって再び別所氏が独立し、福中城は別所氏の本拠三木城の支城として機能していた。
 秀吉との三木合戦で間島氏は、口伝では別所方についたとも、織田方についたともいわれているが、城跡から西北200mほどのところにある宝珠寺には、御家存続の為に父氏常は別所方に、子の氏勝は織田方に分かれて戦ったとの口碑がある。関ヶ原の合戦時の真田氏や生駒氏、九鬼氏などに見られたように、2つの大勢力の決戦時に双方に目を残しておくのは常套手段ではあるのだが、三好氏や別所氏といった強い勢力の間を転々とし、更には御家存続の為に家を割って戦わなければならなかった中小国人の悲哀と苦悩は、事跡を見る限り、常に付きまとっていたのだろう。
 三木合戦後、織田方についた氏勝は、三木合戦後も福中城主として秀吉に属したが、天正9年(1581)に城割りと呼ばれる政策によって福中城は廃城となったようで、後に淡路の岩屋へと転じている。氏勝は、以降も秀吉の天下統一を目指す合戦のほとんどに参陣し、方広寺大仏殿造営の奉行や、文禄の役で名護屋城の警備を務めたが、それ以降は消息が途絶え、改易されたのか転封されたのかもわからず、一説には関ヶ原で西軍に属して没落し、播磨出身である黒田如水を頼ったともいう。
 城は、方形の本丸を中心として北に二ノ丸が細く配され、東に三ノ丸、西に上ノ丸と下ノ丸を擁した5郭構成で、内堀、外堀を有し、小規模ながらもしっかりとした縄張を持っていた。本丸と二ノ丸は国道175号線の位置にあったとされ、往時は眼下に三木街道を望み、明石川沿いの田園を支配下に置いていたようだ。その立地を証明するように、三木合戦の際に城から放った矢が遠く離れた街道を進む織田軍まで届いた為、所在が分かって落城したとの伝承も伝えられ、やや北の印字という字に矢坂の地名が残っている。ちなみに、光源氏所縁の月見の池がある明石の朝顔光明寺は、江戸時代までこの福中城内にあったという。この光明寺は創建年代に諸説があるのだが、もし室町時代の創建ならば、間島氏と何らかの繋がりがあったのかもしれない。
 現地を訪れてみると分かるが、三木街道の代替として整備された国道175号線は車道として構築された為、明石川の作る平野部をまわることなく直線的に台地を突っ切るルートが採られた。この為、明石川沿いの三木街道を見下ろす位置にあった城跡を通ってしまい、往時は三木街道を押さえていたはずの城が現代の三木街道の用地になるという皮肉な結果になっている。そして、この国道と宅地の開発で城跡の痕跡を留めているものはほとんど無くなり、更に痕跡が残っていたかもしれない僅かな藪も4車線化工事で無くなってなってしまった。唯一それらしいものと言えば、福中交差点付近に本丸と名の付いた自動車整備工場があることで、本丸跡を住居にした人の名字か小さな地名として残っているのかは分からないが、その辺りが本丸であったということだけは辛うじてわかる。