尼崎城 所在地 兵庫県尼崎市
阪神電鉄尼崎駅西南すぐ
区分 平城・水城
最終訪問日 2010/5/26
尼崎城城址公園の模擬の城壁と石垣 尼崎には、大きく2回城が建てられている。1度目は細川高国が築いた城で、別名大物城とも呼ばれ、永正16年(1519)に砦程度の城から出発し、大永6年(1526)頃には細川尹賢の居城として高国が諸将に命じて城の体裁を整えさせたという。ただ、規模や詳細な場所は判らないが文明5年(1473)に大物城の名が登場しており、この城を合わせると大物城だけで2度目の築城となる。また、大物城と戦国期の尼崎城は別々の城だったという説もあるようだ。現在残る城跡は、江戸時代に再築された城である。
 最初の城を築いた高国は、この城を重要拠点としたが、高国と対立した細川澄元や、その子晴元は主に堺を拠点としていた。堺と尼崎は大阪湾岸で、且つ当時の淀川河口部から西と南にほぼ等距離という、双方似たような条件である。これは、淀川水系を利用した上洛しやすさが重視された結果なのかもしれない。
 高国が享禄4年(1531)の大物崩れで壊滅的な敗北を喫し、尼崎の広徳寺で自刃に追い込まれた後、晴元が政権を樹立するが、尼崎の重要度は変わらず、以降も周辺は幾度となく合戦の舞台となったという。その後、尹賢の子で高国の養子となった氏綱が晴元打倒の兵を挙げ、晴元側から氏綱側へと寝返って氏綱を傀儡化した三好長慶が実権を握ると、神戸の滝山城や西宮の越水城が三好勢に押さえられていることから、尼崎一帯も三好家に掌握されたと思われる。だが、長慶の死去によって三好家は分裂し、更に永禄11年(1568)の信長の上洛によって敵味方に分かれ、その数年後には摂津における拠点を失ってしまう。こうして、信長の配下となった池田城主池田勝正や伊丹城主伊丹親興が和田惟政と共に摂津を治めることになるのだが、隣接していた両者は細川家臣時代から仲が悪かった。この座りの悪い体制の中、池田家中では反信長派の荒木村重が台頭し、やがて勝正の追放に加担、次いで高槻城主和田惟政を討ち、自立の道を歩んでいく。そして、足利義昭と信長の対立を機に織田方に転じ、足利家を支持していた親興をも滅ぼしてついに摂津一国を信長から任されたのであった。
 これらの一連の流れの中において、尼崎城の事跡はあまりはっきりしない。信長の上洛の後、どうやら元亀元年(1570)の野田福島の戦いの少し後までは信長と三好三人衆の間で争奪があったらしく、それ以降は親興、そして天正2年(1574)に親興を打倒した村重の手へ渡っていったと思われる。摂津一国を任された村重は、伊丹城を大規模に拡張して拠点としているが、尼崎城はその支城として機能させ、本願寺包囲の名目で同4年(1576)に嫡子村次を城主とした。
 2年後の天正6年(1578)、村重は突如として信長に叛旗を翻す。村重は当然の如く伊丹城を包囲されるが、城は堅く、容易に落ちなかった。しかし、毛利家や本願寺からの援護が薄く、与力の高山右近と中川清秀が信長方へ寝返ったこともあって落城は時間の問題となり、翌年9月に村重は人知れず伊丹城からこの尼崎城へと移ったと一般には言われている。だが村重が尼崎城から出した毛利家臣乃美宗勝宛ての書状を見ると、移動は数100人規模だったと見られ、その要因は毛利軍の尼崎城からの撤兵だったようだ。伊丹城はやや内陸にある為、本願寺や毛利家との連携拠点である尼崎の失陥は致命的で、その保持に動いたと見られ、この辺りは悲観的で遁世的な従来のイメージとは随分違い、足掻く村重の姿が見える。しかし、毛利家へ窮状を訴え、毛利家や雑賀衆に援兵を請うた村重の行動は実を結ばず、主不在の伊丹城が開城してしまい、猶もこの城で抗戦したものの、やがて村次を伴って花隅城へと移り、更に翌年7月に毛利家を頼って脱出した。
 村重の逃亡後、各城は開城され、池田恒興が村重の領地を引き継いで摂津衆を率いることになり、尼崎城には次男輝政が入った。恒興が天正11年(1583)に大垣へ転封となると、代わって秀吉の甥秀次が入部したが、大坂城完成後は地理的に近いこともあって秀吉の直轄地となり、郡代として建部高光が入っている。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後も、摂河泉は豊臣領であった為、郡代職は子光重、孫政長と受け継がれて行き、同20年(1615)の大坂の陣後に政長は大名に取り立てられ、初代尼崎藩主となった。
 現在の城跡の尼崎城は、この建部氏の後に入った戸田氏鉄の時の築城である。元和3年(1617)の入封後すぐに幕府から築城を命じられ、翌年から工事を開始した。これは、大坂城を中心として姫路城、明石城、尼崎城を連携させ、仮想敵国の西国大名が山陽道を上って来た時の備えであったという。完成の時期は明確でないようだが、氏鉄が大垣に転封した後の青山氏の治世であったともいわれる。青山氏の後は桜井松平氏が入って明治維新まで続き、明治6年の廃城令で廃城となり、この年から翌年にかけて取り壊しや移築などで建造物の全てが失われた。
 城は、戦国時代の旧尼崎城の南西に位置し、西に庄下川、東に大物川を外堀として備え、両河川の河口部の砂州を城地としている。その中央部にほぼ正方形の本丸があり、本丸北東には四層の天守を建て、他の三方に三層の隅櫓を配し、本丸の周縁はほとんど多聞櫓で結ばれていたようだ。本丸からは東西南に内桝形の門を開き、内堀を挟んで四方は二ノ丸と松ノ丸で囲われその東西に東三ノ丸と西三ノ丸を配置していた。二ノ丸と松ノ丸が地続きで石垣と塀による区画というのを考えると、実質的には4郭で構成され、典型的な近世平城の構造である。
 現在の城跡は、徹底的に都市化され、残念ながら遺構が見当たらず、都市部の城としても主要な藩の城でここまで痕跡が無いのは珍しい。地図から眺めてみると、明城小辺りが本丸、城内高辺りが二ノ丸で、尼崎城址公園は西三ノ丸にあたる。この尼崎城址公園に模擬の城壁があり、その南に桜井松平家を祀った桜井神社があるが、この辺りが城跡を辛うじて感じられる場所だろうか。それ以外では、旧城内中学校付近に城址碑があるらしい。
 訪れた時は、城址公園すらも工事中で入れず、ほとんど見るところが無かった。東の大物川は埋め立てられ、西の庄下川も都市部の河川で趣が無い。唯一雰囲気があったのは阪神尼崎駅南西側の寺町一帯で、駅からも近く、城下町の雰囲気を求めて散策するとしたらここが良いだろう。