明石城 所在地 兵庫県明石市
JR明石駅北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2010/10/3
現存する2棟の櫓と主郭の石垣 大坂城などと共に西国大名に対する抑えとして、元和3年(1617)に明石に入った家康の曾孫小笠原忠真によって翌年から築城が開始され、火災等で工事の大幅なやり直しを経つつ、元和5年(1619)の夏に普請が完了し、翌年に建物の作事も終わって完成した。ちなみに、明石藩当時の忠真は忠政と名乗っていた為、築城者に忠政と忠真の2通りの名が混在している。
 豊臣家滅亡後、幕府にとっての仮想敵国は西国の外様大名で、具体的には主に毛利家と島津家であった。当初忠真は、高山右近が旧城を改修して築いた明石川西岸の船上城に入ったが、山陽を上って来ると考えられる敵軍に対して居館形式に近い船上城では防御力が期待できない為、幕府は防御力を備えた新城を築く必要を感じ、城が完成した暁には、姫路城、明石城、尼崎城、大坂城で東上する軍勢を防ぐ構想であったという。
 築城にあたって、かつて嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱において赤松義雅や赤松尚則が陣した場所で明石氏と三好長慶の戦いでも戦場となった和坂、山塊が須磨の海に張り出している塩屋、そして文明年間(1469-87)に神沢民部の明石構居があったこの人丸山と、3つの候補があったが、城下町の発展などを考え、忠真とその義理の叔父である姫路藩主本多忠政が人丸山に城地を決めた。
 城は、その人丸山の突端部を利用した平山城で、明石の宿場町の後背にあたり、西の明石川を天然の外堀として南には海を擁し、本丸、二ノ丸、後に東ノ丸と呼ばれた三ノ丸の3つの主な郭からなる。これらの3つの主郭は台地に西から並んで設けられ、本丸の西には一段下がって後に稲荷郭と呼ばれた西郭が、台地の麓にも当初は広大な捨郭があった。また丘陵が続いて防御力に不安のある北東方向は、北側に水堀を隔てて北出郭を設け、東は空堀と水堀で丘陵からの動線を遮断している。
主郭大手門付近から見る高石垣 堀は当初、武家屋敷と城下町を隔てる外堀と、捨郭の前面にある内堀の二重であったが、寛永8年(1631)に本丸にあった御殿が焼失し、新たに捨郭に御殿を建てて居屋敷郭として独立させた際に、区画するように内堀が掘られ、最終的には三重の堀となった。また、この時に山里郭と三ノ丸の2つの郭も成立し、最終的に捨郭は3分割されている。捨郭は、恐らく援軍の駐屯地としての機能を想定していたと思われ、重要防衛拠点という城の性格がよく出ている区域だったが、もはや泰平の世となり、広大な駐屯地は無駄と考えられたのだろう。
 城郭建造物としては、本丸の四隅に三層の櫓を配し、天守台も設けられ、その大きさから五層程度の天守が予定されていたようだ。しかし、残念ながら天守閣が建てられることは無かった。その他には、大手門が船上城、坤櫓が伏見城のものを移築したといわれ、一国一城令で破却された三木城や高砂城の資材も使われたという。また、城下町の町割は宮本武蔵が行ったと伝わっており、武蔵作庭という庭や武蔵に関する伝承が明石には点在し、その養子伊織は忠真に出仕していたとされる。
 小笠原忠真が九州探題的役割を期待されて寛永9年(1632)に小倉へ移った後、半年の幕府直轄を経て戸田松平、大久保、藤井松平、本多と親藩譜代が相次いだが、石高は10万石から6万石に漸減した。天和2年(1682)に越前松平氏が入部してからは、そのまま動かず維新まで続き、途中将軍家から養嗣子を迎えて8万石に加増されている。
 城は明治6年の廃城令で廃城となり、明治9年から民間へ払い下げられたが、現存する重要文化財の巽櫓と坤櫓は旧藩士などの尽力によって解体を免れた。また、城地は有志によって明治16年5月から公園として開園し、一旦皇室御料地となるも大正7年4月から再び県立の公園として整備され、現在に至っている。
五層の天守が予定されていた天守台 阪神大震災の際、巽櫓と坤櫓は重大な損傷を受け、石垣は多くの箇所で一部崩壊や石材の破損が発生したが、石垣を積み直し、櫓もそのままの状態で移動させて修復するという特殊な工事が施され、無事に元の姿へと戻った。これにより、本丸の高石垣と2棟の櫓、堀が一体となった景観が再び姿を現し、JR明石駅からの非常に美しい眺めが復活した。個人的には、本丸直下の高石垣を下から見上げるのも素晴らしいが、この駅からの夜の眺めが一番美しいのではないかと思う。