浦之城 所在地 福岡県太宰府市
西鉄太宰府駅北600m
区分 山城
最終訪問日 2001/10/30
 少弐氏の居城と伝えられ、水瓶山から続く尾根の先端部のコの字型の崖と、眼下の御笠川を利用して造られていたという。浦ノ城や浦城と書き、時には大宰府城とも呼ばれる。
 城の存在自体は古く、天慶4年(941)に藤原純友の乱で大宰府が焼失した際には何らかの城砦の機能があったようだ。だが、城としての機能をきちんと備えたのは鎌倉時代で、元寇での功に報いる為、弘安5年(1282)に幕府が城を築城し、少弐経資に与えたのが始まりである。大宰府を本拠としていた少弐氏は、それまでにもこの城から北東2kmの位置にある有智山城という拠点を持っていたが、以降はこの浦之城も拠点とし、詰の役割がある有智山城に対し、浦之城は主に大宰府掌握の為の城として運用したのだろう。
 鎌倉時代末期の少弐貞経は、最初は鎮西探題北条英時に味方して後醍醐天皇方の菊池武時を撃退し、敗死させたが、中央で後醍醐天皇方が勝利したことを知ると、一転して英時を滅ぼした。その後、後醍醐天皇と敵対した足利尊氏を支援し、建武3年(1336)に子頼尚を援軍として赤間関に派遣したが、その留守を後醍醐天皇方の菊池武敏・阿蘇惟直の連合軍に衝かれ、有智山城で自刃に追い込まれてしまう。この時、寡兵であった少弐軍は大宰府を放棄しており、浦之城も放棄されて連合軍に接収されたと思われる。
 貞経自刃の知らせを聞いた頼尚は、尊氏らと共に九州へ渡って多々良浜で菊池・阿蘇らの連合軍と戦い、寡兵ながら勝利して太宰府と浦之城を奪回し、尊氏を迎え入れた。尊氏は城の北にある原山無量寺に本陣を置いて勢力を巻き返し、やがて東上して湊川で楠木正成を討ち、上洛に成功して幕府を開く。しかし、頼尚は九州の守りとして残された足利一族の一色範氏と対立してしまい、後には尊氏と対立していた弟直義の養子で、尊氏の子でもある直冬を支援した。この時、浦之城に直冬と共に籠城したという記述も史料にはある。その後、康安元年(1361)には南朝方の菊池武光が城を攻略して大宰府に懐良親王を迎え入れ、応安5年(1372)には今川了俊が大宰府を奪い返すなどしているが、この後いつまで城があったかはよく判らない。もし戦国期まで存在していたならば、地理的な関係から、西北にある岩屋城の出城か、一帯の本城である宝満城の出城として使われた可能性もあるが、どうだろうか。
 現在、城跡は昭和44年の宅地開発によって遺構が全く失われてしまい、宅地の道沿いに僅かに石碑と公園が残っているのみで、非常に寂しい城跡となっている。個人的には、遺構は失われてしまったので仕方ないが、比較的歴史にも登場する城なので、もう少し案内などを充実させてもいいような気もするのだが、今後の史跡整備に期待したいところだ。